第拾壱話 迷いの窓
校門は閉まっていた。
けれど、鍵はかかっていなかった。
千隼が押すと、錆びた音を立てて門が開く。
「ここから行けます」
千隼は校庭へ続く道を指さした。
「では、案内を」
「はい」
昼間とは違い、校内はしんと静まり返っている。
夏も落ち着き、夜風が校舎の壁をかすめていく。
二人は校庭を横切り、体育館の裏手へと向かった。
足音だけが、やけに大きく響く。
やがて、体育館の壁際にある小さな倉庫が見えてきた。
「先生、あれが倉庫ですが──鍵をかけたので中には入れないと思います」
「ならば、外から確認いたしましょう」
二人は建物の裏手へ回る。
壁の高い位置に、小さな窓がついていた。
倉庫の中を覗ける窓だ。
千隼が近づいた、その瞬間。
昼に感じた違和感とは比べものにならないほどの、強烈な視線を感じた。
まるで、窓の奥からこちらをじっと見ているものがいるような。
篝もすぐに気付いたらしい。
「千隼、感じますか」
「……はい、やっぱり見られてるような感じがします」
「そうですか」
──そのとき。
突然、篝の携帯電話が震えた。
夜の静けさの中で、着信音だけがやけに大きく響く。
思わず千隼が振り返る。
篝は窓から視線を外し、胸ポケットから携帯電話を取り出した。
画面には、昼に伺った依頼者の名前が表示されていた。
「はい、萬屋でございます。いかがなさいましたか」
受話口の向こうで、男の息を呑む気配がした。
『あの……い、今どこにいらっしゃいますか』
昼に会ったときとは、明らかに様子が違う。
「落ち着いてください。どうなさいました」
篝はわずかに目を細める。
『さっきから……窓の外に……』
──そこで声が途切れる。
その言葉に、千隼の視線が反射的に倉庫の窓へ向く。
暗いガラスの向こう。
そこに――
無数の目が張り付いていた。
大小さまざまな目が、窓一面にびっしりと並び、こちらを見ている。
瞬きもせず、ただ、じっと。
「……っ」
千隼は思わず息を詰めた。体が思うように動かない。
その拍子に視線が校舎の方へ流れた。
背筋が凍りつく。
校舎の窓。
一つではない。
並ぶ窓の奥、すべての暗いガラスの向こうに――
同じ目があった。
教室の窓。
廊下の窓。
二階も、三階も。
無数の視線が、夜の校庭に立つ二人へ向けられている。
まるで、校舎そのものが二人を見下ろしているかのようだった。
「先生……あれ」
「ええ、かなり厄介ですね。ここまでとは……」
篝は携帯電話を耳に当てたまま、ゆっくりと校舎を見上げていた。
電話越しに依頼者を落ち着かせながら、その目は一分の乱れもなく校舎を観察している。
受話口の向こうでは、依頼者の荒い息遣いが続いている。
『ど、どうすれば……』
声がかすれている。
『窓の外に……まだ……』
篝は静かに問い返す。
「何が見えていますか」
しばらくの沈黙。
やがて、震える声が戻ってくる。
『……目が』
篝の視線が、ほんのわずかに細くなった。
「そうですか」
驚いた様子はない。
ただ、確かめるような声音だった。
「窓から離れてください。そして、決して外を見ないように」
電話の向こうで椅子の擦れる音がした。
『……は、はい』
篝は通話を切らず、そのまま携帯を下ろす。
千隼はまだ校舎を見上げたままだった。
無数の目。
それらは、相変わらず瞬きもせず、こちらを見ている。
まるで夜の闇そのものに、意思が宿ったかのようだった。
「千隼、目を合わせてはいけません」
千隼ははっとして、視線を地面へ落とす。
「……すみません」
「構いません。誰でも見てしまいます」
篝はゆっくりと倉庫の窓へ近づいた。
だが、視線は上げない。
窓の少し手前で足を止める。
「なるほど」
小さく呟く。
「先生……何なんですか、あれ」
千隼は声を潜めて言った。
篝は少しだけ考えるように沈黙した。
夜風が校舎の壁を撫でる。
それでも、無数の視線は消えない。
篝は穏やかな声で続ける。
「見られているのではなく」
一拍置く。
「――見せられているようですね」
「え……?」
千隼は、その言葉をしばらく頭の中で繰り返した。
見られている、ではなく、見せられている。
「……誰が、見せているんですか」
篝は答える代わりに、倉庫の壁へ指先を触れた。
冷たいコンクリート。
その向こうに、窓がある。
そして、その奥に。
「昼に伺った依頼主の家でも、同じことが起きているようです」
「同じ……?」
「ええ」
篝は静かに頷いた。
「つまり、この現象はこの学校だけではない」
千隼の背筋がぞくりと震える。
「じゃあ……」
「はい」
篝は空を見上げた。
だが、校舎の窓には目を向けない。
「おそらく、何かが“窓”を通してこちらを見ている」
夜の校庭は静まり返っている。
だが、その静けさの奥で、無数の視線だけが生き物のように揺れている気がした。
そのとき。
――ぎし。
倉庫の中から、何かが軋む音がした。
千隼の肩がびくりと震える。
「……先生」
篝は動かない。
「どうやら、向こうもこちらに気付いたようですね」




