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第拾話 迷いの窓

 夜はすっかり深まっていた。


 萬屋の店内には、柔らかな灯りが落ちている。

 帳場の上で、帳面が静かに閉じられた。


 篝はしばらく、その表紙を指先でなぞっていた。


 ——窓際に立つと、落ち着かない。


 昼間の依頼主の言葉が、ゆっくりと思い返される。


「……なるほど」

 小さく呟く。


 そのとき。


「先生」


 卓の向こうから、千隼の声がした。


 宿題を終えたらしい。

 鉛筆を置き、こちらを見ている。


「先ほどの窓の件ですが」


 篝は顔を上げた。

「はい」


「もしかして……昼間の依頼と、関係ありますか」


 篝の手が、帳面の上で止まった。

「——なぜ、そう思いましたか」


 試すような問いではなかった。ただ、静かに問う声だった。


「倉庫の窓、先生が聞いた話と似てる気がして」


「ええ」


 篝は湯呑を手に取る。


「可能性は、ございます」


 静かな声だった。

 だが次の言葉は、少しだけ慎重になる。


「ただし——」


 湯気が、ゆっくりと揺れる。


「学校という場所は、怪異にとって少々特殊でして」


「特殊?」


「ええ」

 篝は視線を落とした。


「人の感情が、非常に強く集まる場所です」


 千隼は、少しだけ考える。

「……子供が多いから?」


「それもあります」

 篝は頷いた。


「喜びも、怒りも、悲しみも。

 まだ形を整えていない感情が、そこには多くあります」


 静かな説明だった。


「そうした場所では、ときに——」


 言葉を切る。


「境界が、揺らぐことがあるのです」


 千隼の背筋が、すっと伸びた。

「じゃあ……」


「ええ」


 篝は穏やかに頷く。

「確認に伺いましょう」


 千隼の目が丸くなる。

「学校に?」


「幸い、あの依頼主の件もございます。

 窓の確認という名目なら、不自然ではありません」


 千隼は少しだけ迷ったあと、

「……はい」

 と小さく頷いた。


 その様子を見て、篝は微笑む。

「もちろん、危険なことはいたしません」


 そして静かに続けた。


「ただ——」


「窓の向こうに何がいるのか、一度だけ確かめる必要がありそうです」


 店内の灯りが、ゆらりと揺れた。

 外では、夜風が路地を通り抜けていく。


 帳場の上の帳面。


 その一行。


 ——経過観察。


 篝はゆっくりと筆を取り、その下に新しく一行を書き足した。


 ——対象、増加の可能性。


 筆を置くと、篝は静かに帳面を閉じた。


「先生」


 千隼が小さく声をかける。

「その“対象”って……窓のことですよね」


 篝は少し考え、頷いた。

「ええ。ただし——」


「窓そのものとは限りません」


 千隼が首を傾げる。

「どういうことですか?」


 篝は湯呑を置いた。


「鏡や窓というものは、人が覗き込むためのものです」


「覗き込むとき、人は必ず“見る”でしょう」


「……はい」


「その視線が、長い年月を経てその場に残ることがあるのです」


「視線が……残る?」


「ええ」


 篝は静かに続ける。

「見ている人間はもういない。しかし“見られている感覚”だけが残る」


 店内が、少しだけ静かになる。

 千隼は思わず窓の方を見た。

 暗いガラスが、灯りをぼんやりと映している。


「それが……溜まると?」


 篝はわずかに目を細めた。


「重くなるのです」


「重く?」


「ええ」


「視線というものは本来形を持ちませんが、数が増えるとときに“圧力”のようになる」


 千隼は小さく息を飲む。

「つまり——」


「窓を覗いた者が、その視線に押さえつけられる可能性がある」


 店内の灯りが、また小さく揺れた。

 外では夜風が鳴っている。


 篝は立ち上がり、外套を手に取った。

「では、参りましょうか」


「はい」

 千隼も慌てて立ち上がる。


 店の灯りが落とされた。

 戸が静かに閉まる。


 夜の路地は、しんと静まり返っていた。

 篝は学校の方角を見ながら、小さく呟く。


「さて——」


「その窓にはいったい、どれほどの視線が溜まっているのでしょうね」

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