第壱話 逢魔が時の来訪者
背後で、何かが鳴いた。
——生き物の、喉の奥のような音が。
それが風の音ではないことを、女はもう理解していた。
靴底が濡れたアスファルトを叩くたび、呼吸が浅くなる。胸が痛い。肺が焼ける。けれど立ち止まれば、終わる――そんな確信だけが、足を動かしていた。
逃げている。
何からかは、分からない。振り返ってはいけない。
曲がり角を一つ、また一つと曲がる。見覚えのない路地に迷い込んだと気づいた頃には、もう大通りの喧騒は遠く消えていた。
行き止まりだった。
「……っ、うそ……」
壁に手をつく。背後の空気が、ぬるりと歪んだ気がした。
――助けて。
喉の奥で、声にならない願いがこぼれる。
その瞬間。
背後で、ちりん、と小さな音が鳴った。
女が振り返る。
そこには、先ほどまで無かったはずの、古びた引き戸があった。
墨で書かれた看板が、薄暗がりに揺れている。
萬屋 逢魔帳
理解が追いつかないまま、女の手は勝手に戸へ伸びていた。
からり、と軽い音がして、戸が開く。
——店内に入ると、夏の熱気がすっと和らぐ。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
低く、柔らかな声だった。
店内は、外よりもわずかに暗い。電球色の灯りが、古びた帳面や木製の棚をぼんやり照らしている。
カウンターの向こうに、一人の男が立っていた。年の頃は三十代半ばほど。
整った身なり、柔らかな物腰。だが、目の下の隈だけが妙に濃い。
「あ、あの……わ、私……追われてて、」
言葉がうまく出てこない。
男は急かさず、静かに頷いた。
「……なるほど、承知いたしました」
そう言いかけた、そのとき。
店の奥から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「先生、篝先生、すみません、帳面の――あ」
現れたのは、まだ幼さの残る少年だった。
小学生にしては落ち着いた様子で、女の姿を見ると目を丸くし、すぐに姿勢を正す。
「……失礼しました」
ぺこり、と丁寧に頭を下げた。
店主は咎める様子もなく、穏やかに言う。
「構いませんよ。ちょうど新しいご依頼です」
「そうなんですね」
少年はほっとしたように息をつき、それから女へ視線を向けた。真っ直ぐで、妙に澄んだ目だった。
女の背筋に、理由の分からない寒気が走る。
店主は、改めて一枚の紙を差し出した。
「それでは、お話を伺う前に、こちらへご署名をお願いしております」
「……契約、ですか?」
「ええ。簡単な確認事項でございます」
女は視線を落とす。
細かな文字が整然と並んでいる。その中の一文だけが、不自然に目に留まった。
――依頼解決後、本件に関わる当店への来訪の記憶は、然るべき形にて整理されます。
「……助けて、くれるんですよね……?」
男は答えない。
帳面の表紙を、指先でひとつ撫でてから。
「萬屋でございますので」
曖昧で、それでいて妙に確信のある声音。
女は震える手でペンを取る。
紙に名前を書き終えた、そのとき。
――ぱきり。
何かが軋む音が、店内に響いた。
少年がはっと顔を上げる。
「……来ました」
戸の向こう。
路地の闇が、ぬらりと滲み出してくる。
人のようで、人でない輪郭。
少年が一歩前に出ようとするのを、篝の指先が静かに制した。
「――千隼、下がっていなさい」
次の瞬間。
影が、裂けた。
音は、ほとんどしなかった。
黒い何かが霧のように崩れ落ち、跡形もなく消えていく。
篝は、その残滓をしばらく無言で見下ろし――
「……やはり、違いますね」
ごく小さく、そう呟いた。
「先生?」
「いえ、問題ありません」
篝は何事もなかったかのように視線を上げる。
その横顔だけが、ほんのわずかに。
――落胆しているように見えた。
*
次に女が目を開けたとき、見慣れた自室の天井がそこにあった。
「……え……?」
体を起こす。
ベッドの上、昨夜の服のまま。
時計を見ると、朝の六時。
ひどく長い夢を見ていたような、妙な疲労感だけが体に残っている。
「……私、なんで……」
そこまで呟いて、言葉が途切れた。
――何か、大事なことがあった気がする。
けれど思い出せない。思い出そうとすると、するりと零れ落ちていく。
「……気のせい、か」
女は首を振り、ベッドを降りた。
*
その日の夕刻。
「……無事に処理は完了しております」
萬屋の店主は、静かに帳面を閉じた。
傍らで、少年が感心したように息をつく。
「先生、最近依頼多いですねえ」
「ありがたいことです」
店主は柔らかく微笑んだ。
その目の奥だけが、灯りの届かない深さで沈んでいた。




