第五十五話
王太子殿下とロレッタ様の結婚式が終わってから、約半月が経った。何かが変わったかというと、特に大きな変化はない。強いて言うならば、ロレッタ様へのお手紙をディルヴァーン侯爵邸ではなく王城へ送るようになったことくらいだ。
「だんだんと朝晩が冷え込むようになってきましたわね」
「じきに冬になりますからね。あまり厳しいものにならなければ良いのですが」
公爵邸の廊下から見える庭園は、もう冬支度を始めているようだった。車椅子に座るオリヴィエ様の頬もわずかに赤く染まり、これからやってくる冬を肌で感じる。
「オリヴィエ様、寒くはありませんか? もう少し暖かい格好をしてくれば良かったですね」
「いえ、大丈夫ですよ。すぐにダイニングルームへ入るのですから」
私を振り返り笑ったオリヴィエ様の顔には、明らかに希望が宿っていた。
私はオリヴィエ様の肩に掛かっているブランケットを正して、再び車椅子を動かした。
彼が1日のほとんどを起きて過ごせるようになり、車椅子での移動にも慣れてきた今日この頃。以前と比べると随分笑顔が増えてきた。オリヴィエ様は言葉にこそしていないけれど、もう死を覚悟して生きているだけだった状態からは大きく心変わりしたはずである。
そして、今日は約1年ぶりにダイニングルームで晩餐をとる。
オリヴィエ様が倒れられてから、私にとっての日々は本当に辛く苦しいものだった。もちろん、オリヴィエ様本人の苦しみに比べたら微々たるものなのだが。
そんな日々を2人でようやく乗り越え、ここまで辿り着くことができた喜びは筆舌に尽くし難い。
久しぶりにオリヴィエ様と共に足を踏み入れたダイニングルームは、いつも以上に気合を入れて整えられていた。
「ご主人様、ミュリエル様、お二方が再び揃ってこちらへお見えになったこと、大変嬉しく思います」
ずらっと並んだ使用人たちは一糸乱れぬ所作で礼をし、代表のジャスパーが祝いの言葉を述べた。どうやら今日の晩餐を大切なものだと認識しているのは、使用人たちも同じようだ。
「ありがとう、ジャスパー。他の皆にも、長らく心配をかけた。今後はミュリーと2人で公爵家を守っていく。どうか皆も協力してほしい」
「「「承知いたしました」」」
私はオリヴィエ様の後ろでただ立っているだけだったけれど、ようやく本当の意味でこの公爵家の一員にしてもらえたような気がした。
私とオリヴィエ様が着席したことで始まった晩餐の雰囲気は終始和やかだった。
「久しぶりにミュリーと同じ食卓を囲むことができて嬉しいです」
「1年ぶりですね。あの日、オリヴィエ様にお話ししたいことがあってお待ちしていたのを、昨日のことのように思い出せます」
本来冬には花を咲かせないすみれが、庭園に咲いているのを見つけた日だった。オリヴィエ様が私の知らないところで気遣ってくださっていたことを知り、そのお礼を直接彼に伝えたいと思ったのだ。普段はお忙しいオリヴィエ様に対して晩餐をご一緒したいと私から言うことはなかったのだけれど。
「私に話したかったことですか?」
オリヴィエ様は心当たりがない、と言いたげな表情で私の様子を伺い、手にしていたカトラリーを置いた。彼は私の顔をまっすぐと捉えて、何の話か聞き出すまではそらさないと言われているような気がした。
「あまりかしこまってお話しするようなことでもないのかもしれませんが…」
私もオリヴィエ様と同じようにカトラリーを置いて、背筋を伸ばした。もう1年も前のことだけれど、当時の私が伝えられなかった感謝を、今の彼に。
「オリヴィエ様が庭園に花を植えるよう指示をなさったとお聞きしまして、それが私のためだとも。当時の私は結婚式の準備とレッスンに明け暮れておりましたから、庭園の花々を眺めて癒しを得ていましたわ。ですから、オリヴィエ様への感謝をお伝えしたいと思って、あの日の晩餐を共にしたいとお願いしたのです」
事情を説明した私は、そのせいでオリヴィエ様にはご無理をさせてしまったようですが、と締め括った。
あの日、オリヴィエ様は体調が悪かったにも関わらず、私との晩餐を優先してくださった。もしも私が彼にこのようなお願いをしていなければ、ベッドで安静にしていることができていたのだと少しばかり後悔している節がある。当時の私はオリヴィエ様の病のことは何も知らされていなかったし、お忙しい中で時間を作ってくださったことが嬉しくて心が浮ついていた。
きっと、オリヴィエ様は私は悪くないとおっしゃるけれど、これは私なりの反省なのだ。
「いえ、私がミュリーから晩餐に誘ってくれたことが嬉しくて、冷静に体調の判断をできなかったことが悪いんです。結果的にミュリーに心配をかけることになってしまいましたし…」
オリヴィエ様は困ったような申し訳なさそうな顔をして、再びカトラリーを手に取った。
「…でも、良かったのかもしれませんね。私の病のことをミュリーに隠したままだったら、今ここに私はいなかったかもしれませんから。私の方こそ、ミュリーには感謝してもしきれませんよ」
私の心に彼の言葉はすっと馴染んで、体が温かくなるような感覚があった。
ずっと、彼が病に侵されていると知った時から考えていた。私が彼を救えたとして、それは本当に彼のためになることなのだろうか、と。独りよがりな、私の願いを叶えるためだけの行為なのではないか、と。
そして、苦しむ彼の姿を日々目にして、彼の人生最後で最大の願いを叶えてあげる方がよほど彼にとって嬉しいことなのではないかとさえ考えた。
何度も何度も考えて、眠れなくなる日もあった。それでも私は治療法を探す道を自らの意思で選び、こうしてオリヴィエ様から感謝を伝えられるようにまでなった。私が選んだ道が間違いではなかったと、ようやく自分の選択を認めてあげることができた気がする。
「…ありがとうございます」
私は笑ってオリヴィエ様に答えた。ここ1年で1番の笑顔だった。
その日から、私たちは毎日のようにダイニングルームで食事を共にした。ごくたまにオリヴィエ様の体調が優れない日もあったけれど。
そして、寒い冬は過ぎ、暖かくて明るい春がやってきた。
庭園の花々は誇らしげに咲き、視界を色とりどりに飾ってくれる。
「オリヴィエ様、もしも体調がよろしいようでしたら一緒に庭園へ出てみませんか?」
「いいですね。久しく外には出ていませんし、練習の成果をミュリーにも見てもらいたいです」
私は喜んで頷き、オリヴィエ様の身支度を使用人に頼んだ。もう春となって日差しが暖かいとはいえ、部屋着のままでは心許ない。
そして支度の済んだオリヴィエ様と私は、庭園へと出た。私は庭園の中でも芝生が綺麗に生えそろい、危険のない場所を選んだ。
「ここなら大丈夫だと思います。オリヴィエ様、準備はよろしいですか?」
「はい、いつでも」
私が手渡した杖を受け取り、もう一方の手を私の手に重ねたオリヴィエ様は、確かに彼自身の足で芝生の上に立ち上がった。
「手を、離しても?」
「はい。 …いえ、やはりそのままでいてください」
オリヴィエ様の手に力がこもる。まだ彼は安定して立ち上がることはできないのだ。
「大丈夫ですか? 1度お座りになった方がよろしいのでは…」
そう言った私の心配はよそに、オリヴィエ様は杖を1歩前へと進め、歩を進めた。
「…えっ」
あまりにも突然のことだったので、私の理解と補助が追いつかない。必死に彼の身の安全を守ろうと支える手に力を入れた。
なんとか倒れ込むことなく支えきれた私は、ほっと安堵の息をついた。一方でオリヴィエ様は私の顔を覗き込んで笑う。
「驚きましたか?」
全く、笑い事ではない。笑い事ではないのだが…
どうしても、溢れる笑みは止められなかった。
「もう、オリヴィエ様ったら…!」
「すみません。ミュリーに驚いて欲しくて隠れて練習していたので」
私たちは笑って、笑って。芝生に倒れ込んだ。
どうやら私がここを選んだのは正解だったようで、体は柔らかく受け止められた。
「ふふっ、なんだか夢のようです。こうしてミュリーと過ごせるようになるだなんて」
「夢ではありませんよ。頬でもつねりましょうか?」
「…悪くない提案ですね」
「じょ、冗談ですよ!?」
私たちはしばらくそのまま、視界の限り広がる青空を眺めていた。




