第四十六話
人は、焦っている時ほど重要なことを見落としてしまう。それを防ぐために、ダブルチェックはいつでも有効なのだ。
そして、人には適材適所というものがある。人生はそう長くないので、先人たちの知恵を1人で継承し切ることはできない。だからこそそれぞれが適性を持ち、役割を分担する。
「ミュリエル様、お医者様がいらっしゃいました」
「お通しして」
私が王城での調査結果報告を受けてから約1ヶ月が過ぎ、もうすっかり春を迎えた。
今日はようやく、お医者様から診断を下してもらえるのだ。
オリヴィエ様の病は、長らく原因不明とされてきた。それは今の医学書に書かれているどの症状とも完全には一致しなかったからだ。けれど、王城での調査で紅茶に鉛が含まれていたことが分かり、原因特定の糸口が見えたのだ。
「大変お待たせいたしました」
いつもオリヴィエ様の容態を診てくださっているお医者様は、いつもより大きなカバンを抱えるように持ってやって来た。
「いえ、それほどでもありませんわ。それよりも、今日は随分と大荷物でいらっしゃいますのね」
「こちらに、公爵様の病に関する資料を全て詰めて参りましたので」
お医者様は私が勧めるままに椅子へ腰を下ろし、早速本題を切り出す。
「先ぶれでもお伝えさせていただきましたが、ようやく公爵様の病がどのようなものなのか、特定することができました」
カバンから次々と取り出される鈍器のような資料の束と書籍たち。資料には書き込みが、書籍にはしおりがたくさん挟まれていて、お医者様がいかに真剣に調べてくれたのかがよく伝わってきた。
「そう、ですか。ようやくこの時が来たのですね…」
私はオリヴィエ様の人生最後で最大の願いを叶えたくないと頑張ってきたわけだが、実際のところ何が進歩したわけでもなく、ずっと病の原因すら特定できていなかったのだ。今ようやく、多くの人の協力のおかげでここまで辿り着くことができた。
「まずは、単刀直入に病名をお伝えいたします。公爵様は、鉛中毒になっておられます」
お医者様の言葉に、特段の驚きはなかった。私も、紅茶に混ぜられていたのが鉛だと判明してから今日まで、鉛を摂取し続けるとどのような影響が出るのか調べてきたから。
ただ、どうしてもわからないことがある。
「やはりそうですか。ただ、それだけではありませんよね?」
私からの指摘に、お医者様は深く頷かれる。
「その通りでございます。公爵様は鉛の他にも数種類、金属を長期間摂取しておられたようで、その影響で鉛中毒では説明のつかない症状が出ていたと考えられます」
「…他の金属、ですか?」
確かに、私も鉛を摂取し続けただけでは出ないような症状が出ていることは知っていた。だからまだ解明されていない鉛の特性によるものなのかと考えていたのだが。
どうやら違ったようだ。
「はい。公爵様がお飲みになっていた例の紅茶を、こちらの試験紙に浸します。すると鉛では絶対に出ない反応が見られるのです」
お医者様が手に持って紅茶に浸した紙は、さっと色を変えた。私はこういった分野に詳しくないので分からないが、鉛しか含まれていない場合はこのようにはならないということなのだろう。
「つまり、公爵様は複数種類の金属を体内に取り込んで蓄積され、それが体調に支障をきたしていたということになります」
私の中で、全てに合点がいった。
ずっと不思議に思っていたのだ。なぜ王国で最も腕の優れたお医者様である彼ほどの人が、オリヴィエ様の病を見抜くことができなかったのか。
紅茶の贈り主であるライラ・オフェレット伯爵夫人は、自分の目的を果たすためであれば、それがたとえ自己犠牲であったとしても手段は選ばない人だった。どんな手を使ってでもオリヴィエ様を亡き者として自分の息子をグランジュ公爵家の当主に仕立て上げようとしていた。
彼女は大胆かつ確実に、オリヴィエ様の命を削り取っていたのだ。
「私が想像していた以上に、恐ろしいものを飲まされていたのですね」
お医者様は私の言葉に頷きつつ、話を進める。
「原因のご説明が終わったところで、ここからは今後についてお話ししたいと思います」
「…はい」
これから、オリヴィエ様を治療することができるのか。できるのであれば、どうすれば良いのか、どこまで治せるのか、どれだけ生きられるのか。
私が1番気になっていたことだ。
「結論から申し上げますと、現在の医術では公爵様の病を完治させることはできません」
突きつけられた現実に、そこまでショックを受けることはなかった。ここまで衰弱してしまったオリヴィエ様の健康を完全に取り戻すことがとても難しいことは素人ながら分かっていたし、覚悟もしていた。
「ですが…」
お医者様は決して明るくはないが少しばかりの希望を滲ませたトーンで言う。
「無事に体外へ金属類を排出することができれば、ある程度のところまで回復する見込みはございます」
その言葉に、今まで堪えてきた涙が静かにテーブルへと落ちた。ずっと求めていた言葉が、やっと耳に届いたのだ。何度も、もう諦めるしかないと思った。諦めきれない自分を抑え込んで、オリヴィエ様の最後を彼が望んだ通りに迎えさせてあげようとさえ思った。
それでも諦めなかった私は、地道に石を積み上げるような努力を重ねることで夢を現実にした。
「…ありがとう、ございます。本当に、感謝してもしきれません」
「いえ、私はただアリスタシー様がお集めになった情報から、医者として病に名前をつけたに過ぎません。私が長年かけても辿り着けなかった解決の糸口を見つけたのは、紛れもなくあなた様です」
それからしばらく、私の涙は止まってくれなかったけれど、お医者様は実の祖父のように優しく見守ってくれた。
「お見苦しいところをお見せしてしまいました。すみません」
「いえいえ、とんでもございませんよ。落ち着かれたようでしたら、今後の治療方針についてお話しさせていただこうかと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
お医者様は紙にまとめられた治療方法を一つ一つ丁寧に説明してくれた。専門的で私には難しい言葉は平易なものに置き換えられ、私が納得を得られるように工夫されていたのがよく分かった。
「…というようなステップを踏むことで、徐々に症状を緩和していく方針を取ろうと考えておりますが、いかがでしょうか?」
「問題ありませんわ」
オリヴィエ様の病は長い時間をかけて少しずつ体を蝕んでいくものだ。だからこそ、急激に治療を進めることはできない。治すのも、地道に行なっていくしかない。
「それでは、こちらにまとめた通りの治療をお願いいたします。私も定期的に診察へ参りますので」
「はい、どうぞよろしくお願いします」
こうして、オリヴィエ様の本格的な治療がようやく始まった。病が顕現してから、実に6年が経過していた。




