第三十九話
「レティ、今少し良いかしら?」
「エラ? もちろんよ、何かあったの?」
少し離れた場所にいたロレッタ様には声をかけて、その近くのテーブルセットへ腰掛けた。ロレッタ様は
「すみません、話を中断させてしまって…」
「いいえ、全く問題はありませんわ。それより、どうかしましたか?」
周囲の喧騒に紛れるほどの、小さな声で私たちは会話をする。
「少し、男性に声をかけられてしまいまして… ロレッタ様を理由に相席を断って来たのでこちらへ参りましたの。ずっと見られているようなので…」
目が合うと困るので、目線は動かさずに訴えた。
ロレッタ様は顔を上げて、会場をぐるっと見回す。
「あぁ、あの方ですわね。顔は分かりませんが執拗にこちらを見ておりますもの、分かりやすすぎますわ」
ため息をついて、目を鋭くしたロレッタ様は、どなたか存じ上げませんが、失礼な男性ですこと!と吐き捨てるように仰った。
「ハリーと名乗っておられましたわ。もちろん偽名でしょうから、この情報にあまり意味はありませんが」
「…ハリーですか? どこかで聞き覚えのある名前ですわね…」
しばしの間、記憶を思い起こそうと悩まれたロレッタ様だったが、結局それらしい記憶は思い出せなかったようだ。
「ミュリエル様は普段、男性がいる場にひとりで赴かれることはありませんでしょう?」
「そうですね、いつもオリヴィエ様が一緒でした」
「公爵はいつもミュリエル様に近寄ろうとする男性を遠ざけようとしていましたから、今までは今回のようなことを経験しなかったのでしょうね」
ロレッタ様の言葉に心当たりがあるかと言われれば、無いとは言い切れない。いつも私が必要以上に男性と関わることがないようにしておられた気がするからだ。社交に不慣れで同じくらいの歳の男性と関わった経験がほとんどない私としてはそれがありがたくもあったのだが。
「今日は公爵がいませんし、グランジュ公爵の婚約者という肩書きもありませんから、純粋に立ち居振る舞いや美貌に寄って来ているのでしょう」
「そ、そうなのでしょうか?」
私はお姉様やロレッタ様のように華のある顔立ちをしているわけではないし、社交の場ではかなり消極的である。そんな私を好ましく思う男性がいるとは、世間というものはよく分からない。
私が疑問符を頭に浮かべていると、ロレッタ様が何かを思い出したように手を打った。
「そうですわ、調査対象は見つかりましたか?」
「それが、まだ会場に来ていないようで…」
今回の仮面舞踏会は参加者の出入りに制限を設けていない。いつ来ても帰っても問題ないのだ。普通は夜が更けるにつれてだんだんと人が少なくなっていくものなんだそうだ。
「せっかく来たというのに、成果なしでは困りますわね。私も気をつけて探してみますわ」
そもそも、直接会ったことがない夫人を仮面をつけた状態で探すのはかなり難易度が高い。私の素性を隠すために仕方のないことだが。
「ありがとうございます。私はもう少し見て回って探しますね」
「大丈夫ですか? まだあの男性はこちらを気にしているようですが…」
「問題ありませんわ。何かあればまたロレッタ様のところへ戻って参りますから」
私は微笑んで、ロレッタ様の心配を拭おうとした。そして椅子から立ち上がって中央の人混みの中へと歩き出した。
とても人が多いので、その中から目的の1人を見つけ出すのは至難の業だ。周囲の人たちに気づかれないよう気をつけながら、女性ひとりひとりの顔を確認していく。
「あらぁー! それは良いですわね!」
「とても綺麗な宝石ですこと!」
「うちの息子はもうすぐ結婚適齢期で…」
そんな会話が飛び交う、私のお母様世代が集まっているエリアへ入り込んだようだ。仮面で顔を隠しているとはいえ、さすがに私が若すぎることは周りの人たちにもバレているだろう。しかし、オフェレット伯爵夫人がいるとしたらこのような集まりの中である可能性が高い。優先的に調査するべきだ。
迷い込んでしまった風を装って、話に花を咲かせているご婦人方の中を歩いていく。
しばらく周りを見渡しながら歩いていると、1人のご婦人に声をかけられた。数人の集団の中に居られるその方は、私を手招きして呼んだ。
「ちょっと、あなた。そう、あなたよ」
あまりに突然のことだったので、すぐには応答できず、言われるがままそのご婦人の元へと寄った。
「私に何か御用でしょうか?」
過去の記憶を遡ってみたが、おそらく相手とは面識がないはずだ。何か気に障る行動でもしていただろうか?
「あなた、ご結婚はなさっておいでかしら?」
「いえ、まだですが…」
オリヴィエ様という婚約者がいるが、素性を隠している今は公言するべきでない。私は質問の意図が分かりかねるので隠すことにした。
私の返答に目を輝かせたご婦人の様子に、嫌な予感がして仕方がなかった。
「それならうちの息子、どうかしら。まだ婚約者が決まっていなくてね、とても素直で可愛い子なのよ。あなたのような可愛らしい方がお嫁に来てくださったら、息子もきっと喜ぶはずよ。私も、可愛い娘ができて嬉しいわ!」
私が口を挟む暇もなく、他のご婦人方も声を上げる。
「あら、うちの息子にもお嫁さんを探さないといけないのよ。うちの子はとても真面目だからあなたが嫁いでくれたらきっと一途に愛してくれると思うわ!」
「それならうちだってお嫁に来て欲しいわ。器量が良さそうだし、振る舞いも洗練されているもの。良いお嫁さんになるに違いないわ」
うちがうちがと話がどんどん膨らんでいく様子を見て、この方達はお酒に酔っているとすぐに分かった。私は愛想笑いを貼り付けて、そんな風に褒めていただけて光栄ですわ、と社交辞令を口にしておく。まともに取り合っても仕方がないし、こういう類のお母様世代のお話は、半分程度耳に入れておくので十分なのだ。
「リリさんのところは息子さんのお相手は決まっておられるの?」
リリと呼ばれた女性は、集団の中で私から最も遠い位置に居る方のようだ。私は一応目線を彼女に合わせた。瞬間、はっと息を呑む。
美しいブロンドの髪、シャンデリアの光を浴びて翡翠のように輝く瞳。そして何より、彼に似た顔立ちの女性。すぐに分かった。彼女がライラ・オフェレット伯爵夫人であると。
以前見かけた時は距離が離れていたのでよく見えなかったが、今回はすぐ目の前に居る。改めて見て、やはりオリヴィエ様によく似ておられる。
私は不審に思われないように表情を取り繕いながら彼女の発言に耳を傾けた。
「うちは… もうそろそろ決まると思いますよ。爵位が上がる予定なので」
何を言っているのか分からなかった。音として耳には入ったけれど、言葉として認識できない。
爵位が上がる予定? そんな話は全く聞いていない。爵位が上がるだなんて、よほどの功績がない限りはあり得ない話だ。オフェレット伯爵家の子息がそのような功績を上げたという話は耳にしていないので、何を根拠にそのようなことを言っているのか理解できない。
そもそも、素性を隠している状況とはいえ不用意にそのような発言をすることが信じられないのだが。




