第三十八話
今日の仮面舞踏会が開かれるのはニコフ伯爵邸である。グランジュ公爵家とは昔からお付き合いがあるようで、以前ディルヴァーン侯爵邸で開かれたパーティーに参加した時に当主とご挨拶をした記憶がある。
「ニコフ伯爵は仮面舞踏会好きで、頻繁に屋敷で会を開いていますの。毎回趣向が凝らされていて、貴族たちからの人気はとても高いです。今日も多くの方が参加されると聞いておりますわ」
そう説明をしてくださったロレッタ様は、だからこそ私の親戚と言ってミュリエル様をお連れすることができるのですけれど、と言って苦笑した。
仮面舞踏会というものは、身分を隠して貴族同士が交流を行う場。だからこそ、主催者側での参加者の身分確認は十分に行われているはずだ。それにもかかわらず私が潜入できるのは、人数の多さとロレッタ様が持つ圧倒的威厳のおかげである。第1王子殿下の婚約者で、近々ご結婚なさるロレッタ様が私を親戚の令嬢だと言えば、それ以上伯爵家側が踏み込んだ調査はしない。ロレッタ様は社交界でそれだけの信頼を得て、地位を確立しておられるのだ。
「もうすぐ伯爵邸に到着します。もう1度、私との約束を確認いたしますわよ」
「はい、危険なことはしない、男性に話しかけられても深く相手にしない、何かあればすぐに知らせる、でしたよね?」
ロレッタ様が私を仮面舞踏会に連れて行くにあたって決められた、3つの約束である。
「その通りです。もしミュリエル様に何かあれば、公爵とアリスタシー伯爵家に顔向けができません。絶対に、守ってくださいませね?」
「分かっておりますわ。ロレッタ様のご迷惑になることは決していたしませんので」
そうして馬車はニコフ伯爵邸に到着した。車止めにはすでに何台かの馬車が列を成しており、参加人数の多さを物語っている。
「さぁミュリエル様、仮面をおつけになって。今から私はレティ、ミュリエル様はエラですわ。それに、親戚という関係性ですから、敬語も崩してくださいな。くれぐれもお間違いのないように」
身分がバレないよう、偽の愛称で呼ぶのだ。私の愛称はミュリーであるが、今日はそもそもミュリエル・アリスタシーですらないので関係ない。私はロレッタ様が名付けてくださったエラという名前で過ごす。
「分かりました、レティ…?」
人を愛称で呼ぶことなどほとんどないので、不慣れさが前に出てしまった。そっとロレッタ様の顔色を伺うと、目をキラキラと輝かせ、なぜだか楽しそうである。
「あぁ、ミュリエル様に愛称で呼んでいただける日が来るだなんて、感無量ですわ!」
「私も、家族以外の人を愛称で呼んだのは初めてかもしれません」
オリヴィエ様と文通をしていたときは、愛称であるオリーヴと呼んでいたが、私はそれを愛称であることを認識しておらず、本名か偽名だと思っていた。彼と会ってからも直接オリーヴと呼んだことはない。公爵邸に来たばかりの頃はオリヴィエ様とオリーヴを切り離して考えていたからかもしれない。今はもう、彼が残していた手紙達を読み、そのようには考えていないのだが。
「な、えっ… 公爵のこともですか?」
「はい、そうですね。直接はお呼びしたことがないと思いますよ」
私の言葉に、ロレッタ様の楽しそうなお顔はみるみるうちに血の気が引いていく。
「それはまずいですわ。私が初めてをいただいてしまっただなんて、公爵に知られたら何をされるか分かったものではありませんもの…」
何やらぶつぶつと考え事をなさったロレッタ様は、急に私の両手を取って言った。
「ミュリエル様、私がミュリエル様の初めてをいただいてしまったことは公爵には絶対に秘密ですわ。よろしくって?」
「…? はい、分かりました?」
愛称で呼び合うことがそんなにも重要なことなのだろうか?
貴族社会とは距離を置いていた私にはその辺りの感覚というものがいまだによくわからないが、ロレッタ様が秘密にして欲しいと仰ったのだからそれ相応の理由があるのだろう。
「さぁ、参りましょう、エラ」
「えぇ、レティ」
私たちはエントランス前に止まった馬車から降りて、会場へと歩いて行く。今日の仮面舞踏会は正式な夜会ではないので、パートナーを伴っている人はそこまで多くはない。現に、私たちの前を歩いている女性もおひとりでの参加のようだ。
重そうな厚い扉が開かれると、先の会場はシャンデリアで照らされた明るい場所だった。
「仮面舞踏会とはこんなにも明るいものだったのね」
「えぇ、そうよ。エラは王都に来たのも久しぶりだから、こういうのは新鮮でしょう?」
「そうね、田舎にはこんなに素敵なものはなかったわ」
私とロレッタ様は、田舎からやってきた令嬢が会場を見て回るというお芝居をしながら、ホールの中をぐるっと一周した。まだ参加者は揃っていないようで、調査対象であるオフェレット伯爵夫人の姿は確認できない。
「会場の案内は済んだわ。エラも仮面舞踏会を楽しむのよ」
「えぇ、ありがとう」
ロレッタ様と別れて、それぞれ別行動を始めた。私は調査としてここへ来ているので、まずはオフェレット伯爵夫人の到着を待たなければならない。それまでは特にすることもないので、悪目立ちしない程度に役を演じて置かなければならない。
私はしばらくの間、壁際のソファに腰掛けて会場を見渡していた。これなら初めて仮面舞踏会に参加した令嬢が興味の赴くままに会場を見ているというていができる。
「案外誰だか分からないものね…」
私は何度か社交界に顔を出し、ほんの少しではあるが顔見知りと呼べるような貴族もいる。しかし、見渡す限りでは誰が誰だか分からない。皆も私のように髪を染めていたりするのだろうか?
そんなことを考えながら使用人が手渡してくれた飲み物を片手に過ごしていると、1人の男性が話しかけてきた。
「こんばんは、レディ。今宵は素晴らしき夜ですね」
「えぇ、こんばんは」
ロレッタ様から男性と深く関わるなと言われているので、話を膨らませるつもりはない。かといってあまりにも無愛想では不審がられる。そのバランスを取るのが難しいところだ。
「レディはおひとりですか?」
「いえ、親戚と一緒に参りましたわ。あなたは…」
茶髪の彼は、そうだった、と何かを思い出したような表情をする。
「失礼いたしました。私のことはハリーとお呼びください」
「分かりました、ハリー」
彼はにっこりと笑って、レディのことはなんとお呼びすれば?と聞いた。
あまり多くの人に私の偽名を伝えたくはないのだが、こう聞かれてしまっては仕方がない。
「私のことはエラとお呼びください」
「エラ、良い名前ですね。仮面で隠れているとはいえ、レディの美しさはこの広い会場の中でも際立っています。きっと、私以外の男もレディを放ってはおかないでしょう」
よくそんなにもスラスラとお世辞が出てくるものだと思いながら、ありがとうございますとだけ返した。お世辞だと分かっていても、初めて関わった人から直接的に容姿を褒められるのは気分が良いものではない。
「レディ、もしよろしければお隣へ座っても?」
ハリーと名乗った男性は、恭しく礼をしながら聞いてきた。私はこれ以上この男性と関わりたくはないのでなんとか断らなければならない。今までの夜会にはオリヴィエ様が隣におられたのでこのようなことは一切なかったのだが、今回は私1人だ。自分自身の力でなんとかしなければならない。
「すみません、私はそろそろ親戚のところへ戻らなければなりませんので」
失礼にならないよう、私も深く淑女の礼をした。
「そうですか、それは残念ですね。また素敵なレディとお話しできることを願っております」
再び礼をして立ち去った私の背中に、彼の視線がずっと突き刺さっているような気がしてならなかった。




