第三十七話
「仮面舞踏会に、行くのはどうかと思いまして…」
「…!」
ロレッタ様は大層驚いた様子で、目線だけで本気ですか?と訴えてきた。
「やはり、私の素性を隠したまま社交界に顔を出すことは難しいでしょうから、身分を隠すことのできる仮面舞踏会が適切なのではないかと…」
仮面舞踏会と言っても、大きく分けて2種類が存在する。ひとつは、身分を隠して他の貴族と交流し、一種のエンタメとして楽しむことを目的とした会。もうひとつは、男女が一夜限りの出会いを求めて集まる会。
私は当然、前者に参加しようと考えているのだ。
「それは、その… 確かに仮面舞踏会であればミュリエル様の素性がバレることはないでしょうが、公爵が何と言うか…」
「ご心配は無用です。私が調査を行っていることさえオリヴィエ様には内緒にしてありますので。決して、ロレッタ様のご迷惑になるようには致しませんわ」
ロレッタ様は近々第1王子殿下とのご結婚を控えておられる、正真正銘の高貴なお方だ。斜陽伯爵家から名門公爵家へ嫁ごうとしている私とは身分も立場も抱えている責任も違う。そんな彼女を私の頼みによって困らせるようなことはしてはならないと私も重々承知しているのだ。
「いえ、それは全く構わないのですが… 未婚の、しかも公爵の婚約者をお連れするのは気が引けますわね」
他に何か方法はありませんの?と渋るロレッタ様だったが、私たち2人が頭を絞ってもこれ以上の案は出てこなかった。
かなり長い間迷っていたロレッタ様は、最終的に私の頼みを了承してくれることとなった。本当に、渋々ではあったが。
その日以降、ロレッタ様はオフェレット伯爵夫人が参加する仮面舞踏会を調べ、そこに参加できるよう手を回してくださった。何から何まで手を煩わせてしまって申し訳ないが、社交界において絶大な影響力を持つロレッタ様だからこそ成し得ることだ。
そして無事に日程が決定し、仮面舞踏会に参加することをジャスパーに伝えると、彼の顔真っ青になってしまった。
「な、な、何をおっしゃるのですか! 仮面舞踏会にお一人で参加されるなど、なりませんっ!!」
今までになく大きな声で叫んだジャスパーに、私もミラも少々驚いてしまった。
しかし、もうここまで決まってしまったのだ。今から参加しませんとは言えないし、そもそもこれは調査のために行くものだ。決して、遊びに出かけるわけではない。
事情を説明しても、ロレッタ様と同じようにオリヴィエ様が何と言うか…と言うジャスパー。
「大丈夫よ、オリヴィエ様にはバレないようにそっと行ってそっと帰ってくるから。それに、この会はロレッタ様が問題ないと判断された会なのよ。何も心配することはないわ」
私はジャスパーが納得できるように諭した。結局、彼は折れてくれたが、もう若くはないジャスパーに心労をかけさせてしまったかと少しだけ反省をした。
「それでは、1週間後の夕方からですね。承知いたしました」
ぺこりと頭を下げたジャスパーに、私は再び口を開いた。
「それと、いくつか用意しておいて欲しいものがあるのよ」
私がまた厄介なことを言い出すのではないかと身構えたジャスパーは、私の話を聞いて大きなため息をつき、やはりそのようなことをお考えでしたか、と肩を落とした。
今回の仮面舞踏会への潜入は、オリヴィエ様の病気の根源となった紅茶を贈ったオフェレット伯爵夫人が、その意図を持って贈ったのかを確かめるための接触である。いくらジャスパーに止められようとも、私はこの方法を変えるつもりはない。あまり意識したくはないが、オリヴィエ様に残された時間がもうあまり長くはないことを1番近くで感じているのは紛れもなく私自身だから。
私はジャスパーとの話し合いを終えて、オリヴィエ様の部屋へと足を向けた。扉を軽くノックしたが、いつものように反応はないので眠っておられるのだろう。そっと音を立てないように扉を開けた私は、中の様子を伺ってから入室した。
オリヴィエ様のベッドの天蓋は閉められ、日中の強い光が眠りを妨げないようにされていた。しかし、診察に来て下さっているお医者様は、少しだけでも体に日光を当てた方が良いとおっしゃっていた。
私は窓側の天蓋を僅かに開け、光を取り入れた。一筋の光がオリヴィエ様の手元を照らし、その細くなって骨ばった様子をより強調させた。
「すっかり、細くなってしまいましたね…」
私はその手に触れつつ、今は穏やかそうな表情をしておられる彼の顔を観察した。お医者様が栄養を補給する注射をしてくださっていることもあって、食事をとっていない割には頬に肉がついていると思うが、お元気だった頃に比べると随分ほっそりとしてしまったのは否定のしようがない。
「せめて、もう少し安定をすればお食事をとっていただけるのに…」
私が手ずから流動食を与えていた頃がもう懐かしく感じる。実際の日数で考えるとそれほど前のことではないのだが。
ここ最近は調査を行なっていた影響で目まぐるしい毎日を送っていたこともそう感じる理由かもしれない。
私はその日、久しぶりにオリヴィエ様の隣でゆったりと過ごした。忙しくしていてなかなかこのような時間を長く取ることはできていなかったので、私の心を落ち着け、オリヴィエ様の願いを絶対に叶えたくないと決心を強める良い機会ともなった。
そうして、少しばかり落ち着いた1週間を過ごし、いよいよ仮面舞踏会の当日がやってきた。今日の会でオリヴィエ様の病気について大きく前進する事実が見つかるかもしれないという期待は大きい一方で、生まれて初めて仮面舞踏会という場所に赴くことに不安も感じている。
「ご指示のあったものをご用意いたしましたが、一体何をなさるおつもりですか?」
ミラは訝しげに聞いてきた。無理もない。私が頼んだのは眠り薬を染み込ませたハンカチと髪を染める染粉だったから。
「ただの護身用よ。ロレッタ様が下調べをしてくださった安全な会ではあるけれど、素性を隠している者たちが集まっていることには変わりないでしょう? 私に何かあれば、悲しんでくれる人たちがここにはたくさんいるの。自分の身は、自分で守らないとね」
私の言葉に、ミラは仕方がないですね、とため息をついた。
「危ないことをなさるおつもりではないということですね?」
「えぇ、もちろんよ」
私とて、自分の立場くらいは理解している。オリヴィエ様がほとんど目を覚まされない状況にあるとはいえ、私はグランジュ公爵の婚約者。世間一般から立場のある人間として認識されていることは間違いない。そんな私が自分の意思で危険に身を投じることなどあってはならないのだ。
支度を終えた私は、不安そうな顔をするジャスパーに見送られて馬車に乗り込んだ。まずはロレッタ様のところへ向かう。今日の私は、ディルヴァーン侯爵家の親戚筋にあたる貴族家の令嬢ということになっているからだ。
侯爵邸につくと、ロレッタ様もすでに準備万端で、エントランスホールで出迎えてくださった。
「まぁ! よくお似合いですわね!!」
ロレッタ様は私の髪を見てそうおっしゃった。今の私は、染粉によってロレッタ様と同じ真っ黒な髪となっているのだ。
「ほ、本当ですか? 私はロレッタ様のような美貌を持ち合わせていないので、黒髪が似合っているとは思えないのですが…」
公爵邸の姿見で確認したときも、違和感が拭いきれなかった。ロレッタ様は私を大袈裟に褒める傾向にあるので、容姿について褒められた場合はあまり信用ならない。
「えぇ、本当ですわ。ロレッタ様が私の妹でしたら、このような感じでしたのね!」
感情を抑えきれないご様子のロレッタ様は、侯爵邸の使用人に急かされて馬車へと移動された。
ここから会場まで乗っていくのは、家紋のついていない馬車である。仮面舞踏会においては、本人の爵位や身分、素性を明かすことは禁じられているため、こうして馬車にも気を配る必要があるのだ。
「さぁ、ミュリエル様、参りましょうか」
「はい、ロレッタ様」
私たちを乗せた馬車はゆっくりと走り出し、ガラガラと車輪が回る音を立てながら会場へと向かっていった。




