第三十三話
私からの話がひと段落したことでほっと息をつくと、ロレッタ様が心配そうに私の顔色を窺った。
「ミュリエル様、あまりお休みになれていないのではありませんか?」
「…すみません、ご心配をおかけしてしまいましたわ。私は大丈夫です。夜はきちんと眠れていますし、日中の忙しさは言うほどではありませんし…」
私は日々、調査を行なっているが、ミラやジャスパーから無理をしないように、ときつく注意されているので、激務と呼ぶほどの作業をこなしているわけではない。むしろ私としては、もっと自分にできることはないのだろうかと考えずにはいられないくらいだ。
「それならよろしいのですが… あまり顔色がよろしくないご様子ですから、きちんと滋養のあるものを召し上がってくださいね」
ロレッタ様の言葉に、エイデン様もその通りだと首を縦に振られる。そんなに心配されるほどの顔色をしている自覚は全くなかったのだが。
「分かりました。お気遣いありがとうございます」
ロレッタ様のおかげで、私を気遣ってくれている人は公爵邸の外にもいるということを改めて認識することができた。今はあまり自分の体調に気を配れるような状況ではないけれど、これ以上ロレッタ様たちに心配をさせるようなことがあってはならない。
「いえ、私はミュリエル様のお力になれておりませんから… もし何か、私にお手伝いできることがありましたら、なんでもおっしゃってくださいませね?」
「はい、その際には必ず」
ロレッタ様はいつも私にこう言ってくださる。とてもありがたく、私の心に余裕を作ってくれる人でもあるのだ。
私はしばし歓談の時間を取った後、王城を後にした。どうか、少しでも調査が進展しますように、と願いながら。
「おかえりなさいませ、ミュリエル様」
「ただいま戻りました。オリヴィエ様の容態はいかがですか?」
公爵邸のエントランスで出迎えてくれたジャスパーに問いかける。返ってくる言葉など、分かりきっているのだが。
「今は落ち着いておられます」
「…そう」
私が期待する答えは、もうしばらく聞けそうにない。その事実が、私の心を静かに縛り付けている。
「オリヴィエ様、ミュリエルです。失礼いたしますね」
ノックをして返答がない部屋の扉をゆっくりと開き、中へと入る。私の足音以外に音がない部屋は、寂しい空気で満たされていて、冬の景色を映しているようだった。
「今日は王城へ行って参りました。殿下やエイデン様、ロレッタ様とオリヴィエ様のお話をしてきましたわ。お三方とも、お元気そうなご様子で何よりです」
目を覚まされることはなくても、私の声が届いているかもしれないというほんの少しばかりの期待から、こうして話しかけることを続けている。
でも、事件の調査については一切話していない。今の私が行っていることは、オリヴィエ様が幼少期から慕ってこられた方を疑うような行為だから。
私とて、オリヴィエ様を愛されていると伺っているような方を疑い、調べるようなことはしたくない。けれど、私がこの役割を担わなければ、オリヴィエ様が苦しみから解放される日は永遠に来ないことになる。それは、疑うことで痛む心よりもずっと、無視できない苦しみだ。
「早く目を覚まして、また私に笑いかけてくださいね」
私はそっとオリヴィエ様の髪に口付けて微笑んだ。これももうすっかり習慣になってしまった。
それから3日が経ち、いつものようにオリヴィエ様の隣で刺繍や読書をしていた時のこと。
「……ぃ」
微かに耳に届いた、本当に小さくて弱い、私を呼ぶ声。この瞬間を、どれだけ心待ちにしていたか、言葉で表すことはできないが、代わりに涙が本に落ちた。
「…オリヴィエ様?」
半分疑うように声をかけた私に、反応するかのようにゆっくり開かれる瞼。急な光で目が辛くならないよう、私は急いで窓側の天蓋を閉めた。
「…り、ぃ…」
言葉にならないほどの、喉から音が漏れた程度のものだった。けれどそれは私にとってこの上なく喜びの対象で、待ち望んでいたもの。
「はい、ここにおりますわ」
震える声でなんとか答えると、オリヴィエ様の口元が少しだけ緩んだように見える。私の声はきちんと届いているようだ。
「……」
オリヴィエ様は何かを伝えようと口を僅かに動かされているが、残念ながら音にはならず、私には伝わってこない。
「今は、無理をしてお話にならなくて大丈夫ですよ。私はずっとここにおりますから、どうか安心してください」
私はオリヴィエ様の右手を両手で包み、宥めるように声をかけた。今はただ、オリヴィエ様が目を覚まされたことだけで十分に、私の心は満たされているのだ。
私の言葉に反応するように、ゆっくりと閉じられた瞼。再び眠りにつかれたことを確認した私は、そっと席を立って、部屋を出た。
「ジャスパーを呼んでちょうだい」
廊下に控えていた使用人に声をかけた。私の表情から察したのか、その使用人は喜ばしそうに了承の意を伝えて去っていった。
しばらくして息を切らしながらやってきたジャスパーも、私が何も言わずとも状況を察し、目頭を押さえた。
「オリヴィエ様が目を覚まされたわ。ほんの短い時間ではあったけれど」
「…そう、でございますか。それはそれは、本当にようございました…」
きっと彼は、オリヴィエ様の大事を考えていたのだろう。彼だけではなく、きっと公爵邸の皆が1度はそう考えたはずだ。けれど、オリヴィエ様は戻ってこられた。まだ弱いけれど、希望の光は確かに点ったのだ。
「まだ予断は許さない状況ではあるけれど、1歩回復へと近づいたのは確かだわ」
「その通りでございますね。このことは、お医者様にもお伝えしておきます」
「えぇ、よろしくね」
ジャスパーはこの上なく嬉しそうな顔をして、伝令のために踵を返して行った。
再び1人になった私はオリヴィエ様のお部屋に戻り、元いた椅子に腰掛けた。オリヴィエ様の表情はいつもより穏やかで、私に希望を与えてくれた。
「私は、オリヴィエ様の生きる希望になれていますか?」
私は彼の頬にそっと触れて問うた。
彼が私に願いを伝えた日、生きることを諦めたような表情をしていた。私はその顔が忘れられず、ずっと頭の中で繰り返し思い浮かべている。
オリヴィエ様は、私を愛していると言った。
私も、オリヴィエ様を愛していると言った。
その事実が、彼の中でどのように捉えられているかは分からないが、私がいるこの世界で、もう少し生きたいと思っていてはくれないだろうか?
「私は、オリヴィエ様に生きていて欲しい…」
ぽろりとこぼれ落ちた私の言葉は、きっと彼には届いていない。それでも、いつか伝わる日が来る。受け入れてもらえる日が来る。
そう信じて、今はただ少し温かくなってきたオリヴィエ様の手を包む。




