第三十一話
王城でのお茶会から帰り、湯浴みをした後にオリヴィエ様のお部屋へ向かったが、その日は目を覚まされなかった。いつもより少し顔色が悪く、呼吸も荒いので仕方がないが。
「おやすみなさいませ、オリヴィエ様」
私はそっと髪に口付けて、部屋へ戻ろうとした。
オリヴィエ様から少し離れると、チェストにティーポットが置かれていることに気がついた。
「あら、珍しい」
オリヴィエ様は倒れられてからあまり紅茶を飲まれなくなった。しかし、蓋を開けて確認しても明らかに紅茶であった。
私はポットとカップを片付けるために持ち出し、使用人に預けてから部屋へ戻った。
お茶会で話したことを思い出しながら、早くオリヴィエ様も一緒に参加できるようになれば良いのに、と考えていると、自然と睡魔が襲ってくる。今日は思っている以上に疲れていたみたいだ。
その日、私はオリヴィエ様と庭園を散歩する夢を見た。
翌朝、まだ日が登ってすらいない時間。ぐっすりと眠っていた私の部屋の扉が慌ただしくノックされた。なんとか返事をすると、バンッと音を立てて扉が開かれる。
「な、に…」
普段ならこんな時間に起こされることはないし、もっと静かに入ってくるものだ。何事だろうか、とまだ回らない頭でぼんやりと考えていた。
部屋へ入ってきたのはミラだった。なぜだかひどく焦ったような表情で、いつもより大きな声を出す。
「ミュリエル様、大変です! ご主人様が…!」
そこまで言われて、私の頭は一気に覚醒した。ぼんやりしている場合ではないと瞬時に判断したのだ。
私はベッドから飛び起きて、ネグリジェのまま部屋を飛び出した。
先ほどのミラと同じように、大きな音を立ててオリヴィエ様の部屋へ入る。そこには何人もの使用人が集まっており、慌ただしく何かをしていた。
「オリヴィエ様!!」
私が駆け寄ると、視界は赤黒く染まる。一瞬、思考が完全に停止し、目の前の光景が現実かどうかを考えた。
「…ぇ」
明らかに、オリヴィエ様が吐いたであろう血が、ベッドに付着していた。彼自身の呼吸はいつになく荒く、苦しんでいることが伝わってくる。
「あぁ、ミュリエル様、お目覚めでしたか! 先ほど側についていた者が発見いたしまして、このような状況に…」
さすがのジャスパーも焦っているようで、いつもより落ち着きがない。そんな彼の話があまり耳に入ってこない私も、相当動揺しているのだが。
「今まで、このようなことはありませんでしたのに…」
ミラが小さな声で言った呟きで、はっとオリヴィエ様の言葉を思い出す。
『あと数ヶ月だけ、私の側に居て欲しいのです。これが、私の人生で最後の、最大の願いです』
その瞬間、私の頭は真っ白になって、その場からピクリとも動けなくなった。
何もかも、オリヴィエ様の言った通りになっていることに気がついたのだ。願いを伝えられた日からおよそ2ヶ月半、そしてその間、私はずっとオリヴィエ様の側に居た。私はあの時、絶対にこの願いを叶えないと誓ったのに。
「…ぃゃ」
私は自分の体を自分の力で支えられなくなり、その場に崩れ落ちた。あまりにも受け入れ難い現実が、嫌というほどはっきり目の前にあり、それは私がどれだけ努力をしても変えられなかったということが心にぽっかりと穴を開けてしまった。
「ミュリエル様!」
すぐ隣にいたミラは咄嗟に私の体を支え、近くの椅子に座らせてくれた。その間にも、使用人たちはテキパキと動き、オリヴィエ様の身の周りを整えた。
しばらくして、いつものお医者様が到着されるとすぐに診察が始まった。私は診断を聞くのが恐ろしいと思いつつも、現実を受け止めなければならないと必死に震える手を押さえつけた。
お医者様は難しそうな顔をして、いつもの薬を打った。
「大変申し上げにくいのですが…」
そう切り出したお医者様の顔はいつになく険しく、続く言葉を聞かなくても分かるようだった。
そんな私の様子を伺いつつ、お医者様は続ける。
「病が急激に進行しております。普通では考えられないほどのスピードでございます。ひとまず、症状を抑える薬を打ちましたが、これもどこまで効果を表すか分かりません。正直、ここまで進行するともう、手立てはかなり限られてくるかと…」
「……そう、ですか…」
私はショックのあまり、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。続くお医者様の話は、耳には入っているものの頭が真っ白で何も考えられないせいで理解が追いつかない。
「それでは、失礼いたします」
深々と申し訳なさそうに礼をして帰っていったお医者様を見送り、私はオリヴィエ様のすぐ隣へと移動した。リネンなどは新しいものに取り替えられて綺麗になっているが、オリヴィエ様の顔色や呼吸の荒さは変わりない。
「どう、してですか…」
オリヴィエ様が望んでこうなっているわけではないと頭では理解している。それでも動揺している私は、彼に説明を求めた。当然、返事が返って来るわけがないのだが。
「いや、です。冗談だと言ってください、もう治っていると、大丈夫だと言ってください…」
目の前の現実を受け入れることができず、必死に夢だと思い込もうとした。どうしてオリヴィエ様がこんなにも苦しまなければならないのか、どうして原因がわからないのか、どうして、どうして…!
この3ヶ月間、ギリギリのところで抑えていた感情が爆発した。私はすっかり細くなってしまったオリヴィエ様の手を取って、体の水分が無くなるまで涙を流した。
出るものがなくなって、日が天高く昇っても、私は彼の手を離せずにいた。私がここで離してしまえば、オリヴィエ様がどこか遠くへ行ってしまうような気がしてならなかったのだ。
「…私を置いて、いかないで」
私は自分が発した言葉に強いショックを受けた。もう、自分の感情をコントロールする方法などとっくに忘れ去り、思考の一つ一つに翻弄されてしまう。
それから、オリヴィエ様が目を覚まされることは無くなった。
確かに呼吸と拍動は確認できるけれど、意識が戻らなくなったのだ。最初はあまりのショックに何も考えられなくなっていた私も、3日が経てば少しばかり冷静さを取り戻していた。
そんな私は、ジャスパーとミラをオリヴィエ様の部屋へ呼び出し、あの日と同じように問い詰めた。
「何があったのか、もう少し詳しく話してもらえる?」
正直、私もこんな話を聞きたいわけではない。余計に辛くなることなど想像できるから。
それでも私は、聞かなければならない。私はオリヴィエ様の人生最後で最大の願いを叶えるわけにはいかないのだから。
「…はい、もちろんでございます」
私に話す覚悟を決めたように、ジャスパーは揃えた手に力を入れた。
「あの日、ミュリエル様がお戻りになる少し前にご主人様がお目覚めになりまして、少しの間、体を起こしておられました。その後はいつものようにお眠りになって、翌朝に側付きが吐血しておられるご主人様を発見したという経緯でございます」
ジャスパーは言いにくそうにしていたが、私もできればこんな話を聞きたくはなかった。
「…そう、分かったわ。いつもと違うところは、特になかったのね?」
「はい、私が思い当たる節はございません」
ミラもジャスパーの言葉に同意を示した。何か急激に体調が悪化したことの原因を探る手がかりがあればと思ったのだが、そう簡単にはいかないようだ。




