第二十九話
私が公爵邸に来てから8ヶ月ほど経ち、オリヴィエ様が倒れられてから約3ヶ月となった。ここ2ヶ月ほど容態に変わりはなく、1日のうち数時間ほど起きられるような日々を送っている。
「ミュリエル様、ディルヴァーン侯爵家のロレッタお嬢様からお手紙が届いております」
朝起きてすぐ、身支度をするために部屋へやってきたミラは綺麗な薄桃色の封筒を手渡してきた。ミラの言う通り、封蝋にはディルヴァーン侯爵家の家紋印が。
「あら、ロレッタ様から?」
最近は私が社交界にほとんど顔を出していないので、ロレッタ様とはほとんどお手紙でやり取りをしている。1度だけグランジュ公爵邸にお招きしてお茶会をしたことはあったけれど。
封筒を開けると、甘いバラの香りがふわっと上がってくる。ロレッタ様からのお手紙からはいつも素敵な香りがして、さすが社交界の華と呼ばれ、第1王子殿下の婚約者に選ばれる方だと思っている。
『ミュリエル様へ
いかがお過ごしでしょうか?
急なお誘いで申し訳ないのですが、近々王城でお茶会を開こうと思っております。参加者はアルフレッド様とエイデン様を予定しております。
よろしければ、外出の理由として使ってくださると嬉しいです。
ロレッタより』
最初の頃の文面を思えば、ずいぶんと略儀で親しみのこもったものになった。
「ロレッタ様から王城でのお茶会へお誘いをいただいたわ」
「それはようございました。最近ミュリエル様が外出されていないのをお気になさったのかもしれませんね」
ミラは返信用の便箋やペンを用意しつつ、嬉しそうに言った。確かにロレッタ様には最近外に出る気分になれないと手紙でお話ししたが、ここまで気を遣わせてしまうとは。
おそらく彼女は、私が王城で開かれる上に王族である殿下がご参加されるお茶会を断りにくいことをよく分かった上で誘っている。
私としては、こういう半強制的な外出予定があるのはある意味ありがたいのだが。
『ロレッタ様へ
素敵なお誘いありがとうございます。ぜひに参加させていただきたいと思います。当日はロレッタ様をはじめ、第1王子殿下とエイデン様にお会いできますことを楽しみにしております。
それではロレッタ様もどうかご自愛くださいますよう。
ミュリエルより』
私は封筒にグランジュ公爵家の家紋印を押し、ミラに預けた。今日の夕方か、遅くとも明日のうちにはロレッタ様の手へ届けられるだろう。
「確かにお預かりいたしました」
こうして、私は王城へ参上する予定を作ったのだ。
「ミュリー、今日は王城へ行く、日ですか?」
「えぇ、そうです。午後から行って参りますわ」
午前のうちに目を覚ましたオリヴィエ様と過ごす時間を大切にしつつ、私はどこかそわそわしていた。もうすでに数回王城へは参上しているが、いつまで経っても慣れるものではない。私はきっと、一生この緊張感から解放されないのだろう。
「オリヴィエ様、今のうちにしておいて欲しいことはありませんか?」
私が不在の間は使用人が交代でオリヴィエ様のお側に付いていてくれるが、もし私が出発するまでの間に何か出来ることがあるのであれば、私に指示しておいてもらいたい。
「…そうですね」
うーん、と言いながら考えたオリヴィエ様は、何か思いついたような表情をした後、私にまっすぐ爆弾発言を投げつけてきた。
「行ってきますの、口付け、とかですかね?」
あまりにも本気の顔をして言うので、私も素直に動揺してしまう。
「…ぇ? いえ、それは…その、なんと言いますか…」
衝撃が強すぎて、意味のある言葉は何も出てこない。婚前の男女が口づけを交わすだなんて、貴族ではあまり良いことではない。そういうことは結婚式を終えてからするものだとお母様からも教わった。
私の頭がぐるぐると回り、どうするべきか考えている間に、オリヴィエ様は声を出して笑った。きっと、私の顔は赤く染まっていることだろう。
「ははっ、ミュリー、からかってすみません。冗談ですよ」
そう言い終わってからも、オリヴィエ様は可笑しそうに笑っていた。
「…もう、ひどいですわ!」
私の抗議が聞き入れられることはなかった。でも、不思議と悪い気分ではない。きっと、オリヴィエ様が心から笑っている姿を久しぶりに見ることができたからだ。
「ミュリーが可愛らしい、反応をしてくれるので、つい…」
すみません、もうしませんよ、と言ったオリヴィエ様だったが、私はそう簡単に許すつもりはない。こんなに動揺させられたのだ、オリヴィエ様にも同じ想いをしてもらわなければ釣り合いが取れないというもの。
私はベッドに手をつき、そのままオリヴィエ様の額にそっと口を寄せた。髪に触れるか、触れないか。そのギリギリのところまで近づいたのだ。
そして私は再び体を戻して椅子に座り直した。
「仕返し、です」
少し冷静になり、自分がしたことを明確に把握すると、徐々に恥ずかしさが込み上げてきた。これでは、また私が動揺しているではないか。
しかし、私が思った以上にオリヴィエにも動揺が与えられたみたいだ。そっと視線を上げると、いつもはまっすぐに捉えられる薄緑色の瞳が、今は俯き気味になっている。髪が掛けられた耳も、いつもより心なしか赤みを帯びている。
「「……」」
なんとも言えない沈黙が部屋に流れて、その間にも私の恥ずかしさはどんどん膨れ上がっていく。
先に口を開いたのは、オリヴィエ様だった。
「…この体が自由に動いたら、ミュリーを抱きしめていたのに」
心から思わず溢れたひとりごとのように、その言葉は発された。今までで1番、オリヴィエ様の本当の気持ちに近い感情に触れた気がする。
そして、その想いはストレートに私の心へ届いた。その後に生まれたのは、もっと彼に触れたいという感情。婚前の令嬢にあってらならない感情だけれど、それを私の理性で止めることはできなかった。
私はまっすぐ手を伸ばし、オリヴィエ様の頭に触れた。ふわふわとして触り心地の良い金髪の感覚が伝わってくる。そして、私はゆっくりとオリヴィエ様の首に手を回した。無理な体勢なこともあって、あまり長い時間は出来そうになかったが、私の背にはオリヴィエ様の手が回された。震える手の振動が直接伝わってくる。
「ミュリー、愛しています」
あの時と、同じ言葉。一言一句違わないその言葉に、わたしは肩を振るわせて反応してしまう。それでも、私は自分の素直な気持ちを彼に伝えることを決心した。
「…オリヴィエ様、私も… 愛しています」
オリヴィエ様のように、確固たる自信を持った言葉ではない。まだ自分でも自覚したばかりで、好きという気持ちと何が違うのかはよく分かっていない。けれど、私が彼を愛しているということだけは、なぜか疑いようもなく信じられる。
私の言葉に、オリヴィエ様の時間は止まったよう。そして、私の背に回された腕に、わずかながら力がこもった。
それから、私がどうやって部屋から出て、王城へ向かったのかはよく覚えていない。あまりにもその体験が非日常で、頭がふわふわとした感覚があったせいだ。




