第二十八話
翌朝はあいにくの雨だった。仮の自室にある大きな窓からは庭園が一望できるが、今日は外が暗いので見ていてもあまり気分は上がらない。しかし、今日はオリヴィエ様の願いを叶えるのだ。それだけで私の心は晴れていた。
「オリヴィエ様、失礼いたしますね」
身支度を整えた私は、オリヴィエ様の部屋の扉をノックした。いつも通り、返事はない。
そのままガチャリと扉を開けると、オリヴィエ様は昨日と変わらない様子で寝息を立てていた。日によっては非常に苦しそうな表情をしておられることもあるのだが、今日はそのような様子は見られない。ひとまず安心といったところだ。
それから私は、少しだけ請け負っている仕事をこなしたり、読書、刺繍をしたりして過ごした。
ふと窓の外を見ると雨はすでに止んでおり、空には大きな虹がかかっていた。
「綺麗…」
久しぶりに見た虹は、私の心までをも彩ってくれた。ずっと曇天の重い雲のような色をしていたのに、こんなに些細なことですぐに変化するのだから、人の心というものは案外単純なのかもしれない。
朝食の時間が過ぎた頃、ミラが軽食を持って現れた。
「ご主人様とのお約束の件は伺っておりますが、私どもといたしましてはミュリエル様のお体を優先させていただきます」
トレーに乗っているのは、パンに野菜や蒸した鶏肉が挟まれたもの。これくらいなら、食べた後にオリヴィエ様が起きられても食事をご一緒できるだろう。
「ありがとう、ミラ」
ミラは私が作業をしていたテーブルの上を片付けて軽食を並べてくれた。
「それでは、何かあればお呼びくださいませ」
そういって彼女は早々と部屋から出て行った。普通のご令嬢に対してだったら、食事の席には同伴し給仕をするのが一般的な使用人に求められる仕事だ。しかし、私がそれを望んでいないことをミラはよく理解している。だからこそ彼女は、私が求めている以上のことはせずに退室した。
軽食を口にすると、優しさの味がした。ミラだけではない、使用人たちみんなの優しさと心配がこの軽食ひとつに詰まっていると感じた。
いつ起きられるか分からないオリヴィエ様に合わせて食事を作ってほしいという指示だけでも十分大変なことを言っている自覚はあるのに、その上でこのような気遣いをしてくれるのだから、私は彼らに感謝しなければならない。いくらそれが仕事だと言っても、それを軽んじるようなことはしたくないのだ。
「…美味しい」
屋敷の使用人たちみんなからの温かい応援のようなものを感じ取りながら、遅めの朝食は終わった。
依然としてオリヴィエ様は眠っているが、顔色は悪くないので様子見をする。
それから私は作業に没頭し、時間を気にすることなく過ごしていた。結局、またミラは食事を持って現れた。窓から外を見るともう日はほとんど落ちていて、どれだけ長い時間作業をしていたのかがよく分かった。
「…ミュリエル様、お水が減っておりませんが休憩は取られていますか?」
サイドテーブルの上に置かれたグラスを確認して、幼子を咎めるような目を向けてくるミラ。確かに集中していたのであまり休憩はしていないが…
私の様子を見たミラは、仕方がないですね、と息を吐き、こちらは召し上がってくださいね、と念押しした。
「何かご入用のものはございますか?」
「…そうねぇ」
退出間際、ミラは私にそう確認した。私は手元にある暇つぶし用の物たちを見回す。
「図書室から何冊か本を持ってきてもらえるかしら? どんな内容の物でも構わないから」
「かしこまりました」
私の要望を受理したミラは、私が食事を食べ終わる前に戻ってきた。
「速かったわね」
「ジャスパーさんが選ぶのを手伝ってくださいましたので」
そう言ったミラは3冊の本を机に置いた。
それぞれ、植物図鑑、恋愛小説、推理小説のようだ。彼らのチョイスらしいと言わざるを得ない。
「ありがとう、私の好みをよく分かっているのね」
思わず、ふふっと笑みが溢れた。知り合ってからまだ半年しか経っていない彼らが、私のことを深く理解しているのが嬉しくもあり、なんだか可笑しくもあったのだ。
「私はミュリエル様の側付きですので」
ミラの言葉には、どこかプライドのようなものが感じられた。
つい半年前まではとてもではないが令嬢らしからぬ生活を送ってきた自覚がある。そんな私の側付きとなったことを、ミラ自身が嬉しいこととしてくれているのなら、私としても彼女を選んで良かったと思う。
「いつもありがとう、ミラ」
今日のことだけではない。昨日も私はミラの優しさに救われた。
環境が大きく変わり、分からないことや慣れないことが溢れている私にとって、彼女の存在はとても大きい。
ミラはにっこりと安心したように笑って、礼をして退室した。
それからもどんどんと夜は深くなり、ついに日付が変わった。私は、固まっていた体をほぐすように伸びた。ずっと同じ姿勢で座っていたので、さすがに体の至る所が伸びる感覚がある。
本も読み終わり、次は何をしようかと考えていた時、耳にあの落ち着く声が届いた。
「…ミュリー」
私はパッと顔を上げ、その声に応える。
「オリヴィエ様、おはようございます」
今日1日、ずっと待っていた瞬間がようやく訪れた。私は立ち上がってベッドへ寄り、オリヴィエ様の顔色を伺った。
まだ目覚めたばかりなのでそこまで良くはないが、呼吸も安定しているので心配する必要はなさそうだ。
「まずは少しだけでも水分をとってくださいね」
私はオリヴィエ様の口元に水差しを持っていき、水の勢いに気をつけながらゆっくりと傾けた。
「ご気分はいかがですか?」
「…悪くはない、です。ミュリーが側にいてくれる、ので」
オリヴィエ様は私の問いに少し考えてから答えた。私はその答えに、それなら良かったです、と笑って応えた。
「もうかなり遅い時間ですが、何か食事をされますか?」
「ミュリーは、何か食べましたか?」
彼は自分のことよりも先に私のことを気にかけた。オリヴィエ様はずっとそういう人だ。
「夕食はまだですが、朝と昼にはいただきましたわ。今から用意いたしましょう」
私の一緒に食事をしたいという彼の願いを、私はなるべく早く叶えてあげたかった。そしてまた、新しい約束をして、叶えられる小さな願いを積み上げていきたいと考えている。
私の指示はすぐに厨房へ伝えられて、すぐに温かい食事が2人分届けられた。オリヴィエ様は流動食だが、私にも同じスープがつけられている。
「オリヴィエ様と同じものを食べられますね」
これも料理長の温かい配慮だろう。本当に、公爵邸の使用人たちは細かい気配りが上手いし、それが私の心を和やかにしてくれる。
オリヴィエ様もその配慮を嬉しく思っているようで、心なしか表情が明るい。
私はオリヴィエ様の口にスープを運びつつ、自分の食事も合間に進めた。褒められた作法ではないけれど、せっかくオリヴィエ様が希望してくれたのだから、この時間は2人だけで過ごしたかったのだ。
「お味はいかがですか?」
「美味しい、です。ミュリーと一緒に食べられ、て、とても嬉しいです」
オリヴィエ様はここ最近で1番の笑顔を見せた。なんだか、私にまでその嬉しさが伝染してくるみたいだ。
「私も嬉しいですわ」
何か特別なことが起こったわけではない。むしろ、オリヴィエ様が起きていられた時間はいつもより短かった。
けれど、今日という日は間違いなく、私にとってもオリヴィエ様にとっても忘れられない日になった。今日のようなほんの小さな希望が、いつか彼を心から救ってくれる日が来るかもしれないと淡い期待を持たずにはいられなかった。




