第二十七話
私の沈黙を肯定と受け取ったオリヴィエ様は、無理に体を起こそうとした。
しかし、そんな力が体にあるはずはなかった。
「大丈夫です、大丈夫ですから起き上がらないでください」
私が慌てて止めたので、渋々諦めたオリヴィエ様。彼は相変わらず、私のことになると無茶をしてでも起きあがろうとするのだ。体の負担になることは絶対にして欲しくないといつも言っているにも関わらず。
「…それで、どうして泣いた、のですか?」
「特に理由はありませんわ。気がついたらふと、涙が流れていただけです」
オリヴィエ様には泣いていたことがお見通しのようなのでそれを隠そうとしても意味がない。だから私はある程度素直に話してしまうことにした。
「では、何かがあったわけでは?」
「いえ、決して何もありませんでしたよ。ただ急に悲しい気持ちになってしまっただけですわ。オリヴィエ様のご心配には及びません」
私は心配をかけないようににっこりと笑って見せた。しかし、オリヴィエ様はそれがお気に召さなかったらしい。
「無理に、笑わなくて良いです。私の前では、ミュリーらしくいて、ください」
「ですが…」
私はオリヴィエ様の前では笑顔でいると決めたのだ。病のせいで生を諦めている彼に、少しでも生きる喜びと目的を与えるために。
「頑張って笑おうと、しているミュリーを見るのは、辛いです。私は、ミュリーにたくさん弱いところを、見せました。ミュリーも、1人で苦しみを抱える必要は、ありません」
一度にたくさん話したせいか、後半になるにつれてオリヴィエ様の息は上がっていった。それでも、それだからこそ、彼が私に伝えたいことがよく分かった。
「私、は… 本当は、笑うのが辛い時もありました。でも、辛いのはオリヴィエ様だから、私は…」
込み上げてくる涙を堪えようと、言葉は上手く出ていかなかった。それでも、オリヴィエ様は私が言いたかったことを察してくださった。
「辛さに強弱なんて、ないんです。私には私の辛さが、ミュリーにはミュリーの辛さがあり、ます。だから、ミュリーは自分の心が出して、いる、助けを呼ぶ声を、無視しないで、あげて…」
「…分かりました、分かりましたから、もう… もうこれ以上はお話にならないでくださいっ!」
オリヴィエ様の声の後ろに、肺が立てている音が聞こえる。きっと、普通に話すだけでも相当な苦痛が伴っているはずだ。いくら私を励ますためとはいえ、私はオリヴィエ様の体調を1番優先したいのだ。それだけは絶対に譲ることができない。
「…は、い」
オリヴィエ様は微かに口角を上げ、瞼を閉じて深く呼吸をした。騒がしく音を立てていた肺は落ち着いて静かになった。
その間に私も息を整え、溢れてしまいそうになっていた涙を引っ込めた。
その時、扉がノックされ、オリヴィエ様の食事が到着したことを知らせた。
「取って参りますね」
私の言葉に、こくんと首を縦に振って答えたオリヴィエ様。私が話さないでと言ったことを守っているようだ。
サービングカートには、流動食のほかにも水差しや半固形食も揃えられていた。オリヴィエ様の状態に合わせて少しでも栄養が取れるように、と料理長が配慮してくれたのだろう。
「オリヴィエ様、失礼いたしますね」
私はすっかり軽くなってしまったオリヴィエ様の上体を起こし、背中にクッションを挟んで角度をつけた。オリヴィエ様が食事を取られるたびにこうして準備から片付けまでやってきたので、もう随分と慣れたものだ。もちろん、最初の頃は使用人たちに反対されたし、しばらくは手を借りて行っていた。私に出来ることがほとんどない今の状況で、なんとかオリヴィエ様のお役に立てないか、と考えた結果がこれなのだ。
「それでは、どうぞ」
スープをほんの少しだけ掬ったスプーンを慎重にオリヴィエ様の口元へ運ぶ。無事にスープは飲み込まれ、私はオリヴィエ様が止められるまでこれを繰り返した。
日によって、食事を取るのが難しいこともある。食べられる日に、食べられるだけ食べてもらいたいと思っているのは私だけではなく、使用人たちもだ。
「今日のスープは穀物ベースに葉物野菜で彩りを加えたもの、ですか?」
「かすかに、薬草の味もする気が、しますよ」
料理長は毎回違うメニューを用意してくれる。やはり、いくら治療のために食べている食事とはいえ、美味しくないと進まないというものだ。
かなりゆっくり進むオリヴィエ様の食事は、半固形食が冷め切った頃に終わった。今日は流動食を半分以上お召し上がりになり、比較的調子が良いことが伺える。
「お辛いかもしれませんが、もう少しそのままでお待ちくださいね」
私は食器を片付けながら言った。背はクッションに預けられているが、やはり上体を起こした状態のままでいることは身体への負担が大きいだろう。けれど、食事を取ったばかりなのでしばらくはこのままでいてもらう必要があるのだ。
「ミュリーは、もう昼食をとったの、ですか?」
「はい、オリヴィエ様がお眠りの間に頂きましたわ」
オリヴィエ様は残念そうに、そうですか、と言った。まだ夕方と呼ぶには早いけれど、昼食を取るには遅すぎるくらいの時間にはなっているのだ。まさかそんなに残念そうな顔をされるとは思わなかったので、少々申し訳ない気持ちになる。
「最近は、ミュリーと一緒に食事を、することが楽しみで… 本当は、食事の時間に起きられたら、良いんですけれどね…」
オリヴィエ様の体調には波があって、今のように起きていられる時間は1日のうちほんの1時間くらいしかないことが多い。そのため、私の食事の時間と合わせるというのはとても難易度が高いことなのだ。しかし、オリヴィエ様の口から何かをしたい、という要望が出ることはほとんどない状況にある今、珍しく出た今回の要望くらいは、なんとか叶えたいところだ。
「…分かりました、明日は食事をご一緒しましょう。オリヴィエ様がいつ起きられても、必ず私がご一緒します」
「それ、は、ミュリーがきちんと食事を、取れなくなってしまうでしょう?」
オリヴィエ様の反論は容易に想像できたものだ。自分の体のことよりも私のことを心配するようなオリヴィエ様なのだから、私が彼に合わせるという提案をそう簡単に受け入れてくれるとは思わない。だが、私はオリヴィエ様の要望を叶えたい。それが、明日を生きる活力になるかもしれないのだから。
「そうですね、それは否定できません。ですが、私は健康ですので、1日くらい食事のタイミングや回数が崩れても大きな問題にはなりません。明日だけで良いので、オリヴィエ様とご一緒させてください」
私は彼の手をそっと握って、どうかお願いします、と頼んだ。私はオリヴィエ様に明日を楽しみにしてほしい、また1日を生きようと思ってほしい。ただそれだけなのだ。
「…仕方がない、ですね。私のわがままに、ミュリーを巻き込むことはもう、したくなかったのですが」
そう言いつつも、オリヴィエ様はどこか嬉しげだった。今、彼の中に明日が楽しみだという感情は湧いているだろうか。
そのあとすぐ、再びベッドに体を横たえたオリヴィエ様は、深い眠りにつかれた。私は新たに交わした前向きな約束を大切に胸にしまい、早く明日にならないだろうか、なんて子どものようなことを考えた。




