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諦めの悪い伯爵令嬢は、婚約者様の人生最後で最大の願いを絶対に叶えたくないのです  作者: らしか


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第二十六話

翌朝、オリヴィエ様の頬に当てた手から伝わってくる体温は少し高く、顔色も良さげだった。昨日は30分ほどお話ができたけれど、今日はもう少し話せるだろうか。

そんな期待を胸に、私はいつもの椅子へ腰掛けた。


特に予定のない今日のような日は、オリヴィエ様のお部屋で本を読んだり、刺繍をしたりとゆっくり過ごすことが多い。オリヴィエ様が倒れられてからはめっきり庭園にも行かなくなり、ただ窓から眺めるだけになってしまった。なんだか、私だけが庭園に出て直接に花や季節の香りを感じるのはオリヴィエ様と距離が開くようでできないのだ。その影響で、どうしても外出しなければならない予定がない限りは、1歩も公爵邸から出ない。


時折届く、殿下やエイデン様、ロレッタ様からのお手紙に返信すること以外には、ほとんど外との交流も持っていない。皆様、オリヴィエ様の容態を気にかけ、私に対してもあまり気を落としすぎないようにと気遣ってくださる。



昼下がり、刺繍が枠を半分ほど埋めた頃に部屋の扉がノックされた。


「はい」

「昼食のお時間でございます」

「分かったわ、今そちらへ行くわね」


あまり褒められたことではないのだが、私は食事をオリヴィエ様のお部屋で取っている。病に伏しているわけでもない私はダイニングルームで食事をするのが貴族として当たり前のこと。しかし、いつ目を覚ますか分からないオリヴィエ様の近くになるべく居たいと思うし、オリヴィエ様自身がそれを望まれているのだ。

結果的に、こうして私の分の食事を部屋まで運んでもらっている。


「ご主人様のご様子はいかがでしょうか?」

「変わりないわ。お目覚めになったら知らせるわね。少しでもお元気そうな様子なら、流動食を取るようにとお医者様に言われているから、それを料理長に伝えておいてもらえるかしら」

「かしこまりました」


私にサービングカートを渡した使用人は、ぺこりと礼をして厨房へと歩いて行った。


「オリヴィエ様、屋敷の使用人たちも心配していますよ…」


私の呟くような言葉は、誰にも受け取ってもらえず儚く消えて行った。




昼食を取り終わり、刺繍が完成した頃。


「オリヴィエ様、完成しましたよ。今日は、この窓から見える庭園、を…」


上手に笑えていたはずだった。口角を上げ、楽しそうな声色で、話しかけていたつもりだった。

けれど、急に言葉は詰まり、視界は涙で歪む。


ただでさえ精神的に参っているオリヴィエ様の隣で、いつまでも涙を流しているのは良くないと、この1ヶ月間なるべく笑顔でいることを心がけてきた。私は大丈夫、オリヴィエ様の方が辛いのだから、と繰り返し呪文のように唱えることで、大粒の涙を流して苦しむ心を騙してきた。

どうやら、その呪文の効力が突然切れてしまったようだ。そうなると、堰を切ったように涙は溢れてくる。

きっと、私がここで大きな声をあげて子供のように泣いたとしても、オリヴィエ様が目覚めることはない。けれど、私は口を手で押さえ、声を押し殺すように泣いた。


「…ふっ、うぅっ……」


ここでこれ以上声を漏らしていたら、私は再びオリヴィエ様の前で笑うことができないような気がしてならなかった。

1度溢れてしまった涙は、そう簡単には止まってくれない。我慢していた分、一気に悲しみと苦しみの感情が押し寄せてきたみたいだ。


『あと数ヶ月だけ、私の側に居て欲しいのです。これが、私の人生で最後の、最大の願いです』


そう言われた時、私はただその願いを全力で突っぱねた。でも今は、そんな気力もなくて、私まであとどれくらい一緒にいられるだろうか、と考えている。本当はこんなことは考えたくもないのに、次々と悪い妄想ばかりが浮かんでくる。


結局、オリヴィエ様の言う通りに、側に居ることしかできていない。絶対にそんな願いは叶えたくないと思っていたのに。

その事実を改めて自覚したことで、自分の不甲斐なさを今まで以上に強く感じるようになった。



ようやく落ち着いた頃には、もう出る涙も無くなっていた。

私はドレッサーの鏡に映る自分の顔を見て、このままでは起きたオリヴィエ様に心配をさせてしまう、と慌てた。

膝の上に乗せていた刺繍済みのハンカチーフを座面に置いて、部屋の扉を開く。


「ミラ、居たのね…」

「…はい。とにかく、目を冷やしましょう」


私の顔を見て一瞬目を見開いたミラは、すぐに冷静になって動いた。

いつもと同じように接してくれる彼女の存在のおかげで、気持ちは少しだけ治った気がした。



「もう、こんなに赤くなっていますわ…」


仮の自室に冷やした水とタオルを持ってきたミラは、私の顔を覗き込んで口を尖らせて言った。それが彼女なりに空気を和ませるためのものであったことは私も理解していた。


「…ミラ、私はここに居て良いのだと思う?」

「きゅ、急になんてことをおっしゃるのですか!?」


視界はタオルが覆っているが、ミラが慌てていることは声色からすぐに分かった。


「誰かに、何かを言われたのですか?」

「…いいえ、そういうわけではないのだけれど」


それ以上何も言えなかった私の様子を伺って、ミラはゆっくりと口を開く。


「私には、ご主人様とミュリエル様のご関係がどのようなものなのか、詳しいことを察することはできません。ですが、ご主人様がミュリエル様に涙を流して欲しくないとお思いであることは分かります」


ミラは一息置いてから、その上で、と続ける。


「ミュリエル様には、泣きたい時に泣きたいだけ泣いていただきたいです。感情とは簡単に制御できるものではありません。涙を流せるというのは、心が健康な証なんですよ」


その言葉は全てがあまりにも温かくて、私の心をすっと軽くしてくれるようだった。


私はオリヴィエ様を不安にさせないこと、笑顔で居ることにこだわりすぎていた。確かにそれは大切なことかもしれないけれど、きっとオリヴィエ様は私の心が重く沈んでいくことを望まれていないだろう。私が間違っていた。


「…そうね、その通りかもしれないわ。ありがとう、ミラ」


私の答えに、ミラはにっこりと笑って、とんでもございませんわ、と言った。


ミラの言葉のおかげで、私は少しばかりいつもの私に戻ることができた。ちょうど、私の代わりに様子を見てくれていた使用人からオリヴィエ様がお目覚めになったと報告があったので、急いで戻った。


「おはようございます、オリヴィエ様」

「…おはよう、ございます」


まだぼんやりとしているご様子のオリヴィエ様だが、昨日よりは明らかに顔色が良くなっている。


「今日は何か食べられそうですか?」

「そう、ですね…」


私はオリヴィエ様の返答に力強く頷き、すぐに手配した。午前中のうちに厨房には指示を出しておいたので、そこまで時間がかかることなく到着するだろう。


「あの、ミュリー… 少しこちらへ、寄ってもらえますか?」


オリヴィエ様は手を振るわせながら、椅子に腰掛けている私に腕を伸ばした。不思議に思いつつ、その手に顔を寄せた。


「はい、なんでしょうか?」

「何か、いつもと違いますよね?」


そっとオリヴィエ様の手が私の頬に添えられて、薄緑色の瞳がまっすぐ私の目を捉える。


「そ、うでしょうか? いつも通りですよ」


咄嗟に取り繕ったけれど、オリヴィエ様には何もかもお見通しのようだ。添えられた手の親指が頬を撫で、腫れが引いたはずの目元を擦る。


「…ミュリー、泣いたのですか?」


見抜かれた、と一瞬時が止まったように感じた。

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