第二十五話
「そのような話、いたしましたか…?」
貴族の教養として、食事の好き嫌いを公言することはあまり良いこととはされていない。料理長には要望を教えてくださいと言われてある程度の好みを伝えたが、オリヴィエ様がそれを知る由はない。
「手紙に、書いていましたよね」
「…え、と… そうでしたか?」
オリヴィエ様はあっさりと、当然のことのように言ったが、私にはそう書いた記憶がない。幼い頃の話だろうか?
「覚えていないのも、無理はありません。確か、そこに…」
オリヴィエ様は視線でベッドサイドを示した。私が見ても構わないかと確認をしてから、チェストの引き出しを開ける。
中には大きな箱が入っていて、それには鍵がかけられていた。
「…これは?」
「ミュリーからの手紙を、保管している箱です。鍵はここに」
私はいつもより少し速い鼓動を感じながら、鍵を鍵穴に差し込んだ。カチャリと小さな解錠音が耳に届き、恐る恐る蓋を開く。
中には大量の小さな紙片が入れられていて、何かの順番にしたがって管理されているようだった。
「本当に、全て取ってあるのですか?」
10年前から始まった5年間にも及ぶ文通の全てを保管しているなんて、にわかには信じ難い。私も一部は取ってあるが、さすがに揃ってはいない。
「はい。ミュリーから、もらった手紙ですから…」
オリヴィエ様は当然のことです、とでも言いたげな表情をして言った。
そっと、いくつかに分けられている手紙の束の1つを手に取ると、それは随分昔のものばかり集められているものだったようだ。私の字はとても拙く、幼少期ならではの幼い言葉遣いが見られる。
「…こんなに、昔のものまで」
私の中に現れてきた感情の正体は分からない。公爵家の嫡子として、当主として、必要なものや欲しいものはなんでも不自由なく与えられてきたはずのオリヴィエ様が、私が気まぐれで返信した手紙をこんなにも大切に扱ってくれていたという目の前の事実に、なんとも形容し難い嬉しさが込み上げてくる。
私は他の束も手に取り、懐かしむように眺める。その様子を、オリヴィエ様は黙ってじっと見つめる。
「ベッドから動けない間、ずっとそれを読んでいたんですよ」
「だから、こんなふうに?」
私の手中にある束たちは、どれも端が擦れたり折れたりしている。きっと、何度も繰り返し読んでいるうちについた劣化たちだろう。
「そうです。私の心の支えに、なってくれたものたちですね」
ただ私が幼少期の気まぐれで返事を送ったことで始まった文通が、病床にある彼を元気づけていたのだとすれば、その気まぐれに感謝しなくてはならない。そしてそのおかげで今私はこうして彼の側にいることができているのだから。
「私も、これを読んでもよろしいですか? なんだか昔を思い出したい気分で…」
私の問いかけに瞬きをすることで答えたオリヴィエ様は、そのまま瞼を閉じて再び眠りにつかれた。
「おやすみなさいませ、オリヴィエ様」
そっと彼の手を取り、上掛けの中に入れた。私も一度手紙を横に置いて料理をいただく。せっかく料理人たちが温かく食べられるように時間を調節して作ってくれたのに、このまま冷まし続けるのは勿体無い。
いつもと変わらず、料理長のビーフパイは頬が落ちるほど美味だった。
晩餐の食器を廊下の使用人に渡し、私はオリヴィエ様の隣で手紙を読み始めた。しかし、オリヴィエ様側で保管されている私からの手紙だけでは一体なんの話をしているのかいまいち理解しきれない。一旦中断した私は、隣の仮の自室から箱を持ってきた。これは、私がオリヴィエ様と同様に手紙を保管している箱だ。私がグランジュ公爵邸に来て、オリヴィエ様がオリーヴだと判明したあの日以降、アリスタシー伯爵邸に置かれたままだったその箱を運んできてもらったのだ。
私は双方の手紙が混ざったり順番がおかしくなったりしないように気をつけながら、2人のやりとりを追って行った。
『どこかの誰かへ あなたの好きなものを教えてください どこかの誰かより』
『おにわ』
オリヴィエ様の幼さを感じさせつつ丁寧で整った字とは対照的に、私の返答はあまりに稚拙だ。当時の私はもう10歳になっていたが、あまり文字を書くのが得意でなく、2歳しか離れていないオリヴィエ様との差がそれ以上に感じられる。
『私も好きです。今はクロッカスの花が咲いています』
『こっちにはスミレがさいています。かみのいろににているのですき』
続くこのやり取りは、王城に参上した際にオリヴィエ様から聞いていたものだ。確かに当時の私はスミレが髪色に似ているから好きだと言っていた。
『あなたの髪はきっと綺麗な色をしているのでしょうね』
『おほめにあずかりこうえいです』
淑女教育で学んだばかりだと思われる言葉を必死に使おうとしている様子に、思わず笑みがこぼれてしまう。
それからずっと続くにつれ、私の言葉遣いも、オリヴィエ様の言葉遣いも、少しずつ友人らしさを帯びていく。
『ミュリーから届く手紙を毎回とても楽しみにしています』
『私も、オリーヴとこうして話せてとても嬉しいです』
しかし、この後から段々とオリヴィエ様の手紙に線の震えが見られるようになっていく。
当時の私はそのことに気が付きつつも不思議に思うだけだったけれど、今なら分かる。この時期から彼は病気に苦しみ始めたのだと。
その手紙を眺めていると線から苦しみが伝わってくるようで、自然と涙が溢れてきてしまう。もうオリヴィエ様の側で泣くのはやめようと決めていたのに。
そして、ついに最後の1通にまで辿り着いた。5年にもわたる長い文通期間に交わした手紙の枚数はあまりにも多いが、集中して読んでいるとその時間は一瞬に感じられた。
『今度、王城でデビュタントをすることになりました。どこかでオリーヴにも会えるかしら』
ここで途切れている手紙。ここから連絡のつかない5年間が始まったのだ。
私はずっと、オリーヴに何かあったのか、嫌われるようなことを書いてしまっただろうか、と何度も繰り返し考えていたけれど、実際は起き上がれないほどの苦痛に襲われていたのだった。事実を知った今では、むしろ嫌われてしまっていた方がどれだけ彼が苦しまずに済んだだろうかと考えてしまう。今更、どうしようもないことなのだが。
「皮肉、ね…」
私たちは文通で繋がり、オリヴィエ様の病のせいで出会うこととなった。それはまるで女神様の悪戯のようで。
あの日、オリヴィエ様が気まぐれで鳩を飛ばさなければ。私が受け取り、返事を書かなければ。オリヴィエ様が病気になっていなければ。
どれ1つが欠けても、私たちは今、こうして一緒にいなかった。良くも悪くも全てが噛み合った結果、今があるのだ。
私はそれぞれの箱に手紙を戻し、オリヴィエ様のものは鍵をかけて再びチェストの中へしまった。
窓から差し込む月明かりを背に、自分の箱を抱えた私は部屋を後にした。




