第二十一話
オリヴィエ様が倒れてから2週間後の朝。
私が洗顔用の温かいタオルを手に部屋へ赴くと、オリヴィエ様は体を起こし、ヘッドボードに上半身を預けていた。
「オリヴィエ様、もう起き上がっても大丈夫なのですか?」
驚いた私の質問に、オリヴィエ様はにっこりと微笑んで答える。
「はい、今は楽ですから。おはようございます、ミュリー」
「お、おはようございます。それは良かったです」
あまりの驚きに、挨拶を忘れていた。
私はオリヴィエ様にタオルを手渡し、2週間前と比べるとずいぶん顔色が良くなりましたね、と笑った。
その後は、消化に良いお粥を食べるオリヴィエ様の隣で私も一緒に朝食をいただく。水差しから水を飲むのがやっとだったオリヴィエ様が自分の手で口にスプーンを運ぶ光景は、それだけで私の心を落ち着け、安心感を与えるものだった。
「完食されて良かったです。これは下げておきますね」
私はトレーに2人分の食器をまとめ、廊下の使用人に手渡した。
普通の貴族令嬢は自分で食器を下げることはないが、私は使用人のいない食事が日常だったので特に抵抗はない。オリヴィエ様や使用人たちにも何も言われないので私がやりたいという希望を優先している形だ。
「…ミュリー、今から少し、話をする時間はありますか?」
部屋の扉を閉めた私に向かって、オリヴィエ様は言った。
私は椅子に腰を下ろし、はい、と答える。
「これから、ミュリーに全てを話したいと思います。もう何も隠し事はしません。良いですか?」
「…分かりました。聞かせてください」
オリヴィエ様の声のトーンで、大切な話だと理解した。きっと、私が受け止めきれないほどの大きな話をされる。それでも私は知りたいと願う。どんな話でも、聞かなければならない。
オリヴィエ様は少し迷って、困ったような表情で話し始めた。
「全てを話す、と言ったのは良いものの、どこから話したら良いのか… まずはそうですね、私の病状から説明しましょうか。私が17歳の頃、重い病気を患ったという話は初めて会った日にしましたね。今でも私は、この病に体を蝕まれています」
ここまでの話は2週間前の夜、ジャスパーから聞いた。改めて本人の口から聞くと余計に、それが疑いようのない事実であると突きつけられる。たとえ頭では理解していたつもりでも、やはりまだ心の整理はついていなかったのだ。
「5年前と比べると、長い期間寝込むようなことは稀になりましたが、今回のように急激な悪化はいまだにあります。そして、何より原因が不明なままで、根本的な治療は全く出来ていないと言えます。症状を緩和させ、一時的に落ち着ける薬以外には効くものがなく、結局は時間が経って落ち着くことを待つしか出来ることはありません」
オリヴィエ様は、いろいろな薬を試したんですけどね、全部効きませんでした、と目を伏して言い、なぜか笑った。
「ここ2年ほどは症状が落ち着いていて、私に配偶者を決めるようにと周囲の者たちが言い始めたのが約1年前のことです。体が弱り、領内の仕事のほとんどを他の者に任せていた私ですが、この体にグランジュ公爵家の血が流れていることは確かです。いつまた寝込むか分からない私に早く跡継ぎを、と考えるのも理解できます」
グランジュ公爵家は貴族筆頭で、この国で王家の次に権威ある家。実際、オリヴィエ様は王位継承権を持つ方なのだ。そんな家をオリヴィエ様の代で絶やしてしまうことを周囲が恐れるのは私にでも分かる。
「それで、私を…?」
「えぇ、その通りです。貴族として生まれた以上、幼い頃から政略結婚は覚悟してきましたが、私は想い人を忘れられなかった。もう5年も連絡をとっていなかったのに、おかしいですよね」
私は首を横に振って、そんなことはありません、と否定した。
私も、ずっと連絡が取れなかったオリーヴのことをずっと心のどこかで気にかけ続けていたのだ。オリヴィエ様の私への想いとは違って、それは大切な友人への親愛だったけれど。
「実は、陛下から婚約の承認を得てからミュリーへ連絡を取るまで、かなり長い時間を要しました。恥ずかしながら、今更ミュリーと会うことを躊躇っていたのです。もうミュリーは私のことなど忘れているかもしれないと思うと、どうしても怖かった…」
オリヴィエ様はぎゅっと手に力を入れ、弱々しく笑った。
「結果的に、ミュリーには拒否権を与えないまま婚約を結び、ここへ連れてきてしまいました。このことに対しては、深く反省しています。本当に、申し訳ないことをしました」
すっと頭を下げたオリヴィエ様。私は慌てて頭を上げるように言った。
「急に婚約を結んだと言われて、混乱しなかったというと嘘になります。ですが、私も一応は伯爵家の娘として生を受けたのです。政略結婚など覚悟の上でした。それに、オリヴィエ様をはじめとする公爵邸の皆さんは私にとても良くしてくださいました。始まりは少し、常識とずれていたかもしれませんが、私は私の意思でここにいて、オリヴィエ様の婚約者を務めています。ですから、これ以上そのことについてオリヴィエ様が罪悪感を抱かれる必要はありませんわ」
私は初めて、自分の思いをはっきりと伝えた。私の言葉に、ほんの少しだけ安堵の表情を見せるオリヴィエ様。
「私はいつもミュリーの言葉に甘えてばかりですね。本当は、自分が半ば強引に連れてきたミュリーを放置するようなことはしたくありませんでした。毎日一緒に過ごす時間をとって、不自由なく過ごせるように、不安を感じることのないようにしたかったのです。でも、この体は思うように動いてくれませんでした」
だからオリヴィエ様は、私に仕事が忙しいと嘘をついていた。ようやく、私の中で疑問が解消された気がする。
「…いいえ、これも全て言い訳ですね。結局、私の嘘はミュリーを深く傷つけてしまった。私はいつも、ミュリーのことを大切だと口では言いながら、最終的には傷つけることになる選択ばかりを選んできたのですね。愚かな私を許してくれとは言いません」
オリヴィエ様は微笑み、続ける。
「自分勝手な願いだとは分かっていますが、1つだけミュリーに叶えてほしいことがあるのです」
「…はい、何でしょうか?」
何の力も持たない私が叶えられる願いだろうか? オリヴィエ様にはいつも私の願いを叶えてもらっているのだから、出来る限り叶えてあげたいのだが。
深く息を吐いて、何かを決心した様子のオリヴィエ様は、私の目をまっすぐに見た。
「あと数ヶ月だけ、私の側に居て欲しいのです。これが、私の人生で最後の、最大の願いです」
頭が、真っ白になった。
「…えっ」
私の口から溢れたのはその一音だけで、疑問符すらつかない。
頭に拍動が響く。この世界から音が消えたよう。
オリヴィエ様は、一体何を言っているのだろうか。全く持って理解できない。
いや、理解することを拒んでいる。
「おそらく、私はもう長くはありません。きっと、近いうちにこの病に負けてしまうでしょう。だからミュリーには、その最後の時まで、私の側に…」
「嫌です!!」
私は大きな声を出した。自分でも驚くほどに。
そしてオリヴィエ様の言葉を遮った。聞きたくないと駄々をこねる子供のように。
そんな私の様子に、オリヴィエ様は困ったように眉を下げ、諭すように言う。
「聞いてください、ミュリー。どれだけ私を恨んでくれても構いません。ですから、あなたを愛した男の最後の願いを、どうか叶えてくれませんか?」
ずるい。オリヴィエ様は、いつもずるい。こうやって、私が断れない状況を作る。
でも、今回ばかりは流されない。絶対に、この願いだけは聞き入れられないから。
「嫌です。そんな、そんな願いは叶えられません。叶えたくありません…!」
オリヴィエ様は、俯いて涙を落とす私の手を取り、そっと口付けた。
「ミュリー、愛しています」
その言葉が、私の心に大きな穴を開けた。こんなにも心が躍らない告白は、初めてだった。
「…さようならみたいに、愛しているなんて言わないでください!」




