第二十話
私がグランジュ公爵邸に来てから約半年の間、オリヴィエ様と一緒に過ごす時間はそう長くなかった。オリヴィエ様は広大なグランジュ公爵領を統治しておられるのだから、私と過ごす時間を捻出することが難しいことくらい、私にも理解できていた。
けれど、その前提が大きな音を立てて崩れ去った。
「ずっと、体調が悪いのを隠しておられたと言いたいのね…?」
どうか、どうか私の勘違いであると言って欲しい。オリヴィエ様はずっとお忙しかったのだと言って欲しい。
私の頭は私に都合が良い答えを求める。
「はい、その通りでございます。ご主人様たっての願いで、ミュリエル様にはお伝えしないように、と」
ジャスパーもミラも、私に嘘を付き続けてきたことを申し訳なく思っているのか、いつもより目線が下がる回数が多い。私はしきりにオリヴィエ様の方を振り返り、様子を確認してしまう。そんなに見ても、オリヴィエ様の状態が良くなるわけでもないのに。
「…今更、あなたたちを責めるつもりはないわ。オリヴィエ様が私に伝えないようにと指示されていたのなら、あなたたちはそれに従うしかないでしょうから」
だから、今私の中で燃えている怒りの矛先は、私自身とオリヴィエ様だ。
これまで、私がこの事実に気がつくことができるタイミングはいくらでもあったはずだ。にも関わらず、私は愚かにもオリヴィエ様の言葉を信じ過ぎてしまった。過去の過ちから学ぶことができず、繰り返してしまった。この事実に憤りを感じずにはいられない。
私がもっと、もっと周りを冷静に見ることができる人間だったなら。意味のないもしも話を浮かべて、過ちを犯した現実から逃げようとする自分が、吐き気がするほど嫌いだ。
そして、オリヴィエ様に対しても私は怒っている。私を大切な人だと言ってくれた、あの言葉は嘘だったのか、と。どうして私には本当のことを伝えてくれなかったのか、と。
しかし、はたと気がつく。
「いえ、これは違うわね…」
ジャスパーは、隠してきたことを私への配慮だったと言った。あくまで、オリヴィエ様は私のことを大切に思い、ショックを与えないように気を遣っておられたのだ。それに対して、私がそれは見当違いな配慮だと文句を言うのは身勝手だ。
私は混乱している頭をなんとか整理しよう深呼吸をし、すっと顔を上げた。
「もう私がこの事実を知った以上、隠し立ては不要よ。オリヴィエ様の目が覚めたら、私からお話をするわ。あなたたちが責められるようなことにはしないから安心して」
「はい…」
2人は深く礼をして、それぞれオリヴィエ様のお世話に必要なものを揃えに出て行った。
私はテーブルセットの椅子をベッドの横へ動かし、そっと腰を下ろした。オリヴィエ様はお医者様の薬が効いてきたのか、ただ眠っているかのように落ち着いていた。ただ、呼吸が浅く、ふとした瞬間に彼の口元へ手をかざして、その有無を確認してしまう。
「…どうして、こんなになってまで私を、婚約者になさったのですか?」
私の問いは部屋に霧散して、私の頭の中で繰り返し再生された。
オリヴィエ様は、ずっと体調が不安定だったのだ。それにも関わらず、どうして私を公爵邸に連れてきて、婚約者にしたのか。どうして私にオリヴィエ様との未来を見せたのか。
考えても考えても、オリヴィエ様の考えは理解できそうにない。
「私はもう、あなたを好きになってしまったのに…」
私の涙を堰き止めていた最後の枷が、溢した言葉によって崩れ去った。一筋の涙が頬を伝って腿に落ちる。
泣くな。泣いている場合ではない。私に、泣く権利などない。
けれど、私の意思は涙を止められなかった。息を殺して、心の痛みを解放するかのように涙は流れていった。
その夜、私は自室のある別館へ戻らず、オリヴィエ様の隣で過ごした。婚前の令嬢が男性の部屋で一夜を明かすなど、周囲から何を言われても文句は言えないが、今日ばかりはどうしても、側を離れられなかった。
「ミュリエル様、どうか少しだけでもお休みになってください。ご主人様のことは私どもが見ておりますゆえ…」
使用人たちは私の体調を気にかけ、そう説得した。けれど、私は頑なに譲らなかった。どうせ横になっても眠れはしないのだ。ここで直接オリヴィエ様の事を見ていられる環境が、1番心を落ち着けることができる。
わがままを通して、長い夜が明けた。
「…ミュリー?」
私が握っていた手がかすかに動き、耳に私を呼ぶ声が聞こえる。疲労に負けた私の頭は軽く休息をとっていたが、一気に覚醒した。
「オリヴィエ様…!」
ゆっくりと開かれた薄緑の瞳が私を映した。
「どうして、ミュリーが… 晩餐は?」
オリヴィエ様はひどく混乱した様子で、急いで起き上がろうとなさった。しかし、このような状態でいつも通り起き上がれるはずもなく、頭がわずかに浮いただけで無情にベッドへ沈んだ。
「起き上がらないでください。今、私から説明いたしますから」
私はオリヴィエ様がお目覚めになった事を廊下に控えていた使用人に伝え、新しい水を持ってくるよう指示した。
「オリヴィエ様は晩餐中に倒れられたんですよ。それからここにお運びして、お医者様に診ていただきましたが、いつもの薬を打つことしかできないと仰いましたわ。今は… 翌朝ですね。体調はいかがですか?」
私の説明を聞いて、オリヴィエ様はしばらく考え、そっと目を閉じた。
「ミュリーに知られてしまったのですね…」
自嘲のようにはっと短く息を吐きながら言ったオリヴィエ様。私はその言葉にどう返して良いのか分からず、部屋には沈黙が流れた。
しばらくして届けられた水差しを受け取り、再びオリヴィエ様の側へと戻る。
「お水は飲めそうですか?」
「…はい」
オリヴィエ様は私に看病されることを受け入れたかのように唇を結んで言う。
私は何を聞けばいいのか、何を言えばいいのか分からず、側の椅子に腰掛けたまま黙り込んでしまう。
昨夜、あんなにも頭の中に溢れていた疑問や怒り、言葉はまるで初めからなかったかのように消えてしまっていた。私もオリヴィエ様と同じように混乱しているのかもしれない。
「今は、ゆっくりとお休みになってください。私にも、思考を整理する時間が必要なようです」
オリヴィエ様は私の言葉に浅く頷き、再び目を閉じて眠りについた。ひとまず目が覚めたことを喜ぶべきか、全快しそうな気配が全くないことを嘆くべきか。
それから数日の間、オリヴィエ様は体調の波に苦しまれた。薬が切れると急激に悪化する体調に支配されていたこの数日は、オリヴィエ様にとっても私にとっても辛いものだった。ただ側で見守ることしかできない自分の無力さを嫌というほど実感させられる。
そんな状況でも、私はオリヴィエ様がお休みになっている部屋のすぐ隣を仮の自室とし、毎日できる限り側にいることにした。結婚式に向けた準備は全て一時停止し、今はオリヴィエ様が治療に専念できるようにと環境を整えることを第一優先したのだ。
「すみません、ミュリー」
まだ長く会話ができるまで回復していないオリヴィエ様が放ったこの短い言葉が、どれほど私の心を抉ったことか。
謝るくらいなら、もっと早く知らせて欲しかった、早く回復して私にあなたの考えを説明して欲しい、そう自分勝手な考えを持ち、また私は私を嫌いになって。
結局、オリヴィエ様が起き上がれるほど回復したのは、2週間も後のことだった。




