第十九話
オリヴィエ様との晩餐を楽しみにしつつ、それまでの時間をレッスンの復習を行なって過ごした。時間が限られているレッスンでは、十分に練習の時間を取れないことが多い。そのため、こうして復習の時間を別で取り、学んだことを定着できるようにしている。
「ミュリエル様、そろそろ晩餐のお時間でございます」
「あら、もうそんな時間? 分かったわ」
ミラが声をかけてくれたので部屋の窓から外を見ると、確かに日は落ちていた。
机の上に広げていた勉強道具を軽く片付け、ダイニングルームに下りた。
「ご主人様はまもなくお越しになります」
私がダイニングルームに入ると、中には使用人が数人のみ控えていた。いつもならオリヴィエ様が待っていてくださるのだが、今日は前の予定が押したのだろうか。
先に席につき、オリヴィエ様にお話ししたいことを考える。
晩餐を共にできた感謝、庭園のこと、すみれのこと…
考えるだけで心は躍り、わくわくする。いつから、私にとって彼がこれほどまでに大きな存在になっていたのだろうか。
しかし、肝心のオリヴィエ様はなかなかお越しにならなかった。
私がダイニングルームに下りてきてからかなりの時間が経っている。使用人が淹れてくれた紅茶も、もう湯気立っていない。
「ミラ、お忙しいようなら無理をなさらないように伝えてくれる?」
「…よろしいのですか?」
いつもなら私の指示にそのまま従うミラが、珍しく聞き返してきた。
もとより、私が急に晩餐を共にしたいと言い出したのだ。領内の多岐にわたる仕事を担当されているオリヴィエ様の予定が変わることなどごく普通のことのはず。私との約束がお仕事の枷になることだけは避けなければならないから。
「えぇ、私は大丈夫だから」
「…かしこまりました」
ミラが伝達に行こうと足を扉へ向けた瞬間、ガチャリと音を立てて扉が開かれた。
「すみません、ミュリー。随分と、遅れてしまいました」
扉の奥から現れたのは、オリヴィエ様その人だった。
「いえ、お忙しかったのではありませんか? もし中断をなさっているのでしたら、私のことは構わずお戻りくださいね」
私の言葉に、オリヴィエ様は、いえ、と言いつつ首を横に振っていつもの席に座られた。
それと同時に、使用人たちが料理を並べ始める。
次々とテーブルの上は料理で埋まり、いつも通り晩餐が始まる。
「ミュリーは、今日は何をして過ごして、いたのですか?」
「午前中は特に予定がなかったので読書をしたり、午後のレッスンの予習をしておりましたわ。午後はレッスンを受けて、庭園を見て回っておりましたの。それで…」
庭園がとても綺麗で、オリヴィエ様のご指示で整えられたと聞きました、と続く予定だった私の言葉。しかし、その続きは口から出ることがなかった。
私の中で、なにかが引っ掛かっている。いつもと何かが違う。でも、それが何なのか分からない。
しかしその答えは、私の直感に近いものによって解決された。
「…オリヴィエ様、お顔の色が悪いですわ」
私の言葉に、オリヴィエ様の肩がぴくりと反応する。いつもより言葉の歯切れが悪いことに、ようやく気が付けた。
「多忙による疲労でしょうか? お医者様に診ていただいた方がよろしいので、は…」
私の口から言葉が出終わる前に、ガタリと椅子が音を立てて、オリヴィエ様の体が傾いていく。
まずい、このままでは床に倒れ込んでしまう。そう思ったがもう遅い。私の動けるスピードでは、手を伸ばしたところで到底支えられない。
「オリヴィエ様!!」
彼の体を支えたのは、私ではなくジャスパーだった。ジャスパーは私よりもずっと早く事態を察知し、動いていたのだ。
私もオリヴィエ様の側に駆け寄ると、その表情は苦しそうに歪んでいた。ただの体調不良ではなさそうだということは、素人の私にも分かった。
「ミラ、お医者様を! 残りの者たちでオリヴィエ様を寝室にお運びして!」
「「「はい!」」」
屋敷内は、慌ただしく動いた。その間にも、どんどんオリヴィエ様の顔色が悪くなっていく。
オリヴィエ様が1番近くの部屋のベッドに横たえられてからも、改善しそうな気配はない。
ミラが呼びに行ったお医者様は、到着するなりすぐに診察を始め、何かの薬を打った。少し、オリヴィエ様の顔色が良くなり、呼吸が落ち着いた。
「ひとまず、いつも使用している薬を投与させていただきました。これ以上の治療は、この病の原因が分からないことには出来かねます」
「…分かりました」
こんなにも混乱している状況にも関わらず、私の頭は不思議とクリアだった。今、詳しく説明を求めるべきはお医者様ではないことを理解していた。
それではまた何かあればいつでもお呼びください、と言い残してお医者様は退室して行った。集まっていた使用人たちも静かに掃け、部屋にはオリヴィエ様と私、そしてジャスパーとミラだけが残った。
私はハンカチでオリヴィエ様の汗をそっと拭い、ジャスパーとミラの方を振り返り見る。
「2人とも、説明してもらうわよ」
私の言葉に2人は少し俯いて、はい、と答えた。私だって、詳細を聞くのは怖い。絶対に聞きたくない事実がある。それでも、聞かなくてはならない。私はオリヴィエ様の婚約者で、彼は私の大切な人だから。
「お医者様は、いつも使用している薬とおっしゃっていたわ。このようなことは初めてではないのね?」
どうか否定してほしい。私の勘違いであってほしい。そんな願いは無惨に砕かれ、ジャスパーが肯定した。
「…そう。いつからなの?」
「ご主人様が17歳の頃からにございます」
私はジャスパーの言葉に、はっと息を呑んだ。
それはつまり、つまり…
「病気が、完治していたわけではなかったのね…」
「さようにございます」
オリーヴからの手紙が途絶えた約5年前。その頃にオリヴィエ様は重い病気を患っておられたということは本人の口から直接聞いていた。ベッドから起き上がることもできず、生死の境を彷徨ったと。
私は勝手に完治しているものだと勘違いしていた。1度も、彼の口からそんな話は出ていなかったのに。
「私は、気が付けなかったのね…」
何が婚約者だ。何が大切な人だ。私は何も気がつけず、何も分かっていなかった。
私はいつもそうだ。オリーヴからの手紙が途絶えた時だって、彼女のことを何も知らなかったと後悔したではないか。もう2度と、大切な人を失う経験はしたくないと、後悔のない人生にしたいと強く願い決心したではないか。
その結果がこの様とは、呆れて言葉も出ない。結局私は、同じことを繰り返しただけ。何も出来ていなかった。
どれだけ深く後悔しても、この現実が変わることはない。辛そうに荒い呼吸をするオリヴィエ様を救うことはできない。
もっと早く気がついていれば、私がもっとオリヴィエ様に信用されていれば。
何か出来たのかもしれない。
「…えっ、と、それで…」
クリアだった私の頭は自己嫌悪に染まり、言葉が続かない。ジャスパーとミラも、そんな私の様子を見て、口を開かずにいる。
「これ以上の治療は出来ない、ということだったかしら。いつもこの状態のオリヴィエ様にはどう対処していたの?」
ジャスパーは少し躊躇いがちに答える。
「基本的には身の回りのお世話をさせていただくだけでございました。その上で、大変申し上げにくいことなのですが…」
私がすっと顔を上げ、ジャスパーの目をまっすぐに捉える。
「…ご主人様がお仕事でお忙しいというのは、ミュリエル様へのご配慮だったのです」
頭が殴られたような衝撃だった。2人に聞こえてしまうほど大きく息を吸い、手で胸元を握り込む。
「ミュリエル様、大丈夫ですか…?」
ミラが私に手を伸ばし、落ち着かせようとする。しかし、その手を反射的に避けた。
「ごめんなさい、いえ、違うわ。私のせい、で。私は…」
頭の中にいろいろな情報が溢れかえり、感情の収拾がつかなくなってしまった。




