第一話
「ようやくお会いできましたね、ミュリー、いえ… ミュリエル・アリスタシー伯爵令嬢」
肩に鳥を乗せて微笑む一風変わったその男性は、ある日突然我が家にやってきた。
明らかに豪奢な馬車、質の良い衣服、整えられた御髪。同じ貴族でも圧倒的に格が違うと一目で分かった。
「オリヴィエ・グランジュと申します。初めまして、と言うのも違和感がありますね。あなたは私の『大切な人』ですから」
貴人は紳士の礼をして名乗ったが、知り合いにそのような名の人はいない。それに、間違いなく彼とは初対面だ。こんなにもキラキラとしたオーラを振りまいている人を、簡単に忘れるとは思えないからだ。
何より、私のことを『大切な人』と表現するような親しい間柄の男性はいない。
「…えぇと、失礼ですがどちら様でしょうか?」
私に向かって笑顔でまっすぐ伸ばされた手に、想いのままをぶつけてしまった。
しまった、と思ったがもう遅い。
差し出された貴人の手はグッと握られ、彼はなぜか嬉しそうに微笑んだ。
「そうですね。…これはゆっくりと、お話しする必要がありますね」
その日、私の人生は大きく変化した。私のあずかり知らぬ間にこの貴人の婚約者となっていたのだ。
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「ミュリエル様、これを持って行ってくださいな!」
「あら、ありがとうございます。とっても美味しそうなオレンジ、家族でいただきますね」
「ミュリエル様〜!」
「はい、こんにちは。お母さんとはぐれないようにね」
私、ミュリエル・アリスタシーは斜陽伯爵家の次女。社交界デビューをとうの昔に済ませた歴とした淑女であるが、さながら町娘のように領内を歩き回っている。というのも、伯爵令嬢とは名ばかりで実際には平民とそう変わらない生活を送っているのだ。
それほどまでに領地経営が傾いているのならば、政略結婚によってまとまったお金を得るのがよくある方法。
しかし、残念なことに私の容姿は特筆するほど整っているわけではない。斜陽伯爵家の平凡な令嬢に、まともな縁談など来るわけもなく、大抵は前妻を亡くした老当主の後妻としてのお話だ。
それでも多少のお金にはなるはずだが、お父様は娘である私を売るような真似はしないと頑なだ。
結果、私は結婚適齢を迎えて2年が経った今でもお相手が決まっていない。
しかし、私自身は今の生活に満足している。お父様とお母様がいて、可愛い弟がいて。たまにしか会えないけれど、結婚して幸せに暮らしているお姉様もいて。領民とは非常に良好な関係が築けていて。足りないのはお金だけなのだ。
「お父様、ミュリエルです」
「あぁ、入りなさい」
アリスタシー伯爵家当主である私のお父様は、若い頃はそれはもう爽やかな美形だったそうだ。そう、若い頃は。現在は… なんと言うか、お茶目な風貌だ。
「夕食の支度が整いました。今日はお父様が好きなかぼちゃのスープがありますよ」
「それは楽しみだ」
使用人は、昼間に屋敷の掃除を担当しているメイドと執事の2人しかいないので、食事の支度はもっぱら私とお母様の役目。お姉様が結婚する前、3人でキッチンに立っていたのが懐かしい。
「さぁっ、温かいうちに食べましょう。ミュリーが街でいただいてきたオレンジもありますよ」
「やったー! オレンジ!」
「きちんと食事を全て食べてからですよ」
「はーい!」
こうして家族と食事を共にし、決して裕福ではないけれど穏やかで幸せな日々。世間から行き遅れと言われても、この生活が守れるのならそれでいいと思った。
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こんな日々が一転した経緯を説明するためには約10年前まで遡らなければならない。
まだ私が幼く、弟が赤子だった頃の話。
「ティアナ様、ミュリエル様、転けないように気をつけてくださいね」
「はーい!」
お姉様と私は、庭を駆け回るおてんば娘だった。
この頃はまだ領地経営も安定していて、屋敷に十分な人数の使用人がいた。
「お姉様、みてー!」
「まぁ、綺麗なお花! ミュリーの髪色によく映えるわ」
「えへへっ」
淑女教育の時間以外はこうしてお姉様と一緒に遊び、幼いながらに充実した日々を送っていた。
そんなある日のこと。
いつものように遊び、木陰で休憩していた私の元に1羽の鳥がふわりと舞い降りた。
「…鳥さん、足に何かついてるよ?」
妙に大人しいその鳥を膝の上に乗せ、足に括りつけられた小さな筒を取り外した。不思議に思いながらも中身を取り出してみると、綺麗ではないけれど丁寧な字で書かれた手紙のようなものだった。
『どこかの誰かへ あなたの好きなものを教えてください どこかの誰かより』
今思えば、誰かが飛ばした伝書鳩だったのだ。しかし、当時の私はそんなことを考えつくはずもなく、知らない世界からの不思議な魔法の手紙だと思った。
ワクワクした気持ちのままに、鳥を抱えて自室へ駆け戻った私は、小さな紙に拙い字で書いた。おにわ、と。
その返事を丸めて筒に入れ、鳥の足に括りつけて窓から放した。差出人の元へ無事に届きますように、と願いながら。
その鳥が再び私の前へ現れたのは1週間も後のことだった。返事を出したことなどすっかり忘れていた私だったが、また不思議な手紙が届いたのかもしれないと心躍らせ、急いで自室へ戻り筒を開いた。
『私も好きです。今はクロッカスの花が咲いています』
とても簡潔で、当たり障りのない手紙。それでも、未知の世界からやってきたこの手紙たちに返事を出しては受け取ることを、いつしか楽しいと思うようになっていった。
『ミュリーはどんな食べ物が好きですか?』
『私はキャラメルが好きです。オリーヴは?』
『好き嫌いはないけれど強いていうならマカロンです』
本当に、たわいもない話ばかりだ。好きな食べ物、家族、最近の悩み等々。鳥に託せる、ほんの短い文章だけれど、私とオリーヴの間には確かに友情が芽生えていた。
しかし、私が15歳になった頃のこと。急にオリーヴから返事が届かなくなってしまったのだ。
最初は忙しいのかもしれないと軽く考えていたけれど、数ヶ月が過ぎ、数年が過ぎ。
私の心は心配と後悔の思いでいっぱいになった。オリーヴの身に何かあったのだろうか。もしかして私の手紙で気分を害してしまったのだろうか。考えど考えど答えが見つかるわけでもなく、ただ無情に時は過ぎていく。
その中で、私は気がついてしまった。こんなにもオリーヴと手紙を交わしたのに、結局私は彼女のことをほとんど知らないと。
どこに住んでいるのか、本名は何というのか、なぜ時々震えた線の文字になるのか。
私は勝手に彼女を友達だと思っていたけれど、堂々と胸を張って言えるほど、彼女のことを知らなかった。
そして、その間に我がアリスタシー伯爵家は経営難に陥っていった。自分の好きなように時間を使うことはできなくなり、家族全員が協力して生活をするようになったのだ。どんどん減っていく使用人の代わりを務め、両親の助けとならねばならない。
もちろん私も、オリーヴのことばかり考えているわけにもいかなくなった。
それでも、私の頭の片隅にはずっとオリーヴがいた。私がオリーヴのためにできることは何かないのか、と考えない時はなかった。
そして祈った。女神様、オリーヴが私を嫌っていないのなら一度でいいので彼女と話をさせてください、と。
数年後、お姉様は嫁いで行き、私は20歳になった。
結局、私の願いが女神様に届けられることはなく、オリーヴと連絡が取れなくなってから5年という月日が流れていた。きっと、彼女は私のことが嫌いになってしまったのだ。そう自分を何とか納得させて、オリーヴとの文通は幼き頃の思い出として心の奥底にしまっておこうと思った。




