第6話 — 触れた気がした温もり
「気配だけで、心はほどけていく。」
なぜか分からない。
でも、ノゾミは今朝、いつもより少しだけ安心していた。
誰かに包まれているような感覚。
孤独ではない——そんな気がした。
長い通勤の道のり。
周囲の景色も、通り過ぎる人々も、目に入らない。
心は、昨日のあの角に置いてきたまま。
「どうして、この胸の高鳴りが止まらないの…?
あの角を曲がってからずっと、
この感覚…この気配…
私を守ってくれてるような…」
ノゾミは知らなかった。
彼女が一番会いたいと願っていた人が、すぐそばにいたことを。
会社のビルに到着する。
販売部のオフィスがある建物。
ロビーを通り抜け、エレベーターへ向かう。
だが、列が長すぎた。
ぼんやりした頭では、じっと待つことができなかった。
彼女は階段を選ぶ。
廊下の奥にある扉を開け、静かに足を踏み入れる。
オフィスは4階。
急ぐには近すぎる。
集中するには遠すぎる。
3階の踊り場で、ノゾミは足を踏み外した。
驚いて手すりにしがみつく。
その瞬間——
腰に、そして手に、ふわりとした温もりを感じた。
慌てて周囲を見渡す。
——誰もいない。
彼女は呟く。
「今の…何だったの…?
誰かに支えられたような…そんな気がした。」
数秒間、動けずに立ち尽くす。
頭を振って、自分に言い聞かせる。
「心配しすぎてるだけ。
今夜はちゃんと寝よう。」
階段を上がり、4階に到着。
部屋に入り、いつもの同僚に挨拶する。
彼女はいつも手作りのチョコレートをくれる。
ノゾミは隣の自分のオフィスへ。
椅子に座り、書類を整え、机を片付ける。
ふと、額に手を当てる。
熱があるか確認する。
「熱でもあるのかな…?
あれは幻覚だったのかも。」
「上の階から聞こえたのは、ただの足音。」
「…仕事に集中しよう。」
長い一日。
集中できないまま、なんとか地元の商店との契約をまとめる。
書類を引き出しにしまい、帰る準備をする。
そのとき——
トントン。
ドアがノックされ、すぐに開く。
「ノゾミ?入ってもいい?邪魔じゃない?」
ノゾミは慌てて姿勢を整え、答える。
「もちろん、ミユ。どうぞ。」
ミユは机の前の椅子に座る。
「ノゾミ、今朝見かけたけど、すごく遠くにいるみたいだった。
何かあった?」
ノゾミは笑顔を作りながら答える。
「昨日あまり眠れなくて…
ちょっとぼんやりしてるだけ。」
ミユは、声の微妙な変化に気づきながら言う。
「心配しないで。男なんてみんな同じよ。
私なんて、夫と毎日喧嘩してる。」
「これ、新しいチョコレート。ピーナッツ入り。
売り場の人が勧めてくれたの。まだ食べてないけど、気に入ってくれるといいな。」
そう言って立ち上がり、ノゾミが返事する前に部屋を出ていく。
ノゾミは机の上のチョコレートを見つめる。
そして、心の中で呟いた。
「…違う。
レンは——違う。」
静けさの中で、誰かの気配が心をほどいていく。
それが幻でも、確かに——温もりだった。




