第42話 — 記憶の影と月の歌
ノゾミはまだ記憶を取り戻せず、胸の奥に不安を抱えていた。
アパートの中を歩き回り、持ち物を見渡す。
懐かしさはあるのに、何かが欠けている。
なぜか心を慰めるのは、携帯電話を見つめることだった。
身体は覚えているのに、頭は思い出せない。
それでも心地よい感覚があり、まるで何かを待っているようだった。
指先で画面を叩き続ける。
そうすれば記憶が蘇るのではないかと信じて。
着替えを探しに寝室へ向かう。
クローゼットを開けると、そこにはパジャマが整えられていた。
ノゾミはそれを手に取り、身にまとい、ベッドに横たわる。
眠れば少しは楽になるかもしれないと願いながら。
だが眠れず、何度も寝返りを打つ。
再び携帯を手に取り、意味を求めて画面を探る。
SNSのアプリが並ぶ中、ひとつだけ古いアプリが目に留まった。
普段は触れないそのアプリに、身体が反応した。
開くと、フィードには懐かしい投稿が並んでいた。
もう覚えていない人々、そしてシンジとの会話。
彼からのメッセージは数か月途絶えていた。
だが、最新の会話は「レン」という名前だった。
ノゾミは最後に送ったメッセージを読み返す。
「レン…話したいことがあるの。すぐ返事して。」
返事がなく、数分後にもう一つ送った。
「…離婚を切り出した。」
そして、彼女を震わせたのは通知だった。
「入力中…」
その瞬間、記憶が蘇る。
シンジとの出会い、関係の行方、諦めた瞬間、そしてレンとの出会い。
身体が硬直し、息が止まる。
携帯を床に落とし、涙が溢れ続ける。
抑えてきた怒りと悲しみが叫びとなり、部屋に響いた。
「ずっと返事してくれなかったの…?
私が何をしたっていうの?お願い、答えて…」
ノゾミはゆっくりと、乱れた足取りで窓へ向かう。
夕暮れの残光の中、夜が訪れ、月が姿を現していた。
窓辺に腕を置き、顔を両手で支えながら月を見上げる。
そして、かつてレンが書いて送ってくれた歌を口ずさむ。
“月の下で探してる
冷たい風に名前を託す
触れられない 抱けないまま
心だけが隣にいる”
歌声に合わせ、桜の葉が風に舞い上がる。
“同じ空の下
すれ違うふたり
見えなくても 消えなくても
愛はまだここにある
闇に咲く花のように
儚くても 美しい”
ノゾミは周囲を見渡し、近くの広場にある古い桜を思い出す。
そこに、ひとり座る人影が見えた。
理由は分からない。
だが、心がその場所へと引き寄せられていた。
ノゾミは歩き出す。
彼女の選択が、想像もできない未来へと導こうとしていることを知らぬまま。




