第36話 ー 運命を変える手紙
「忘れた記憶よりも、心が選ぶ感情が未来を決める。」
ノゾミは、シンジの言葉を思い返しながら、父との再会についての会話に耳を傾けていた。
けれど、その声は遠い雑音のようにしか聞こえず、心は別の場所にあった。
「夢で見たあの男が、あの残酷なことをしたの?
でも、病室で見た人と、受け取ったメッセージは全然違っていた。
どうして、こんなに混乱しているんだろう。」
ノゾミは気づかなかった。
彼女が求めていた“繋がり”の相手は、記憶に刻まれた人物ではなかったのだ。
思考が溢れ、時間が止まったように感じた瞬間——
ゆっくりと足音が近づいてくる。
ユノ。老いた魔女が姿を現し、ノゾミは息を呑んだ。
ユノは彼女の前に立ち、静かに言葉を投げかける。
「あなたが理解したことは、せいぜい海の一滴にすぎない。
もっと深い層が、まだ眠っている。」
ノゾミは複雑な思いを抱え、答えた。
「でもユノ、私は記憶を失っているの。
残っているのは心の感情だけ。
黒沢シンジは“夫”だと言い張るけど、どうしても信じられない。
母の言葉も、父の言葉も食い違っていて…
私は何を信じればいいの?教えて、お願い。」
ユノはフードの影から、年を重ねた微笑だけを覗かせる。
「若き娘よ。
あなたも、あなたが探す人も、近くにいて遠い。
二人とも、目の前にあるものに目が曇っている。
心が指し示す感情を見なさい。
その選択が、未来を決める。」
ユノは背を向け、歩き始める。
時間がゆっくりと動き出す。
ノゾミは慌てて声を投げた。
「ユノ、本当にこの感情を追い続けるべきなの?
記憶なんて忘れて、新しく生きる方が楽なんじゃない?」
ユノは遠くで足を止め、横顔だけを見せる。
その瞬間、大型トラックが轟音を立てて通り過ぎ、彼女の言葉は音に呑まれた。
そして、病院の扉の影に溶けるように姿を消した。
同時に、看護師が息を切らして外へ飛び出す。
「野々美さん——すみません、急いできました。
これ、渡し忘れていました。
ベッドの横に置いてあった手紙です。
差出人はありませんが…どうぞ。
ご快復をお祈りしています。」
ノゾミは封筒を受け取り、じっと見つめた。
差出人のない手紙。
心臓の鼓動が、いつもより速くなる。
その時、父の声が彼女を現実へ引き戻す。
「ノゾミ、大丈夫か?
ずっと上の空だ。
本当に退院しても平気なのか?
もう少し休んだ方がいいんじゃないか?」
ノゾミは即座に返事をし、車のドアを開けて座る。
「大丈夫よ、お父さん。
今日はもう、たくさん人と話しすぎたの。
家へ帰って、休みたい。」
武志は心配そうに頷いた。
「すまない、ノゾミ。
事故のことが心配で、つい過保護になってしまう。
でも、家に戻れば少しは落ち着くだろう。」
彼はすぐに運転席へ乗り込み、エンジンをかける。
出発の直前、ふと後方を見た。
シンジの車は、まだ同じ場所に止まっていた。
理由は分からない。
武志は何も言わず、車を走らせた。
ノゾミは知らなかった。
病院を離れたその瞬間に、彼女の運命が音もなく切り替わったことを。
出会いとすれ違い——その積み重ねが、彼女の物語を別の道へと導いていく。
——第2章・終。




