第33話 ー 忘却の中に残る温度
「記憶は消えても、心が覚えていることがある。」
面会時間が終わり、医師たちも交代の時間を迎える頃、ノゾミは静かに眠りについた。
夢は見なかった。
ただ、身体と心に残る“ずれ”のような感覚だけが、彼女を包んでいた。
夜が更け、看護師が夕食を運んできた音で目を覚ます。
食事はうどん。
ゆっくりと箸を進めるが、味は記憶の中のものとは少し違って感じた。
それでも、空腹は満たされた。
ふと、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえた気がした。
夜なのに——
不思議に思いながらも、食器を棚に置き、シーツをめくってベッドから立ち上がる。
もう、あまり痛みは感じなかった。
数歩歩いて窓辺に腕を置き、外の静かな夜景を見つめる。
病院の出入り口には人の姿がちらほら。
車のライトが通り過ぎる。
そして、また——小鳥の声。
今度は、部屋の中から聞こえた。
驚いて振り返る。
そんな音が鳴るものは、思い当たらない。
その時、ベッドの反対側の棚に、見覚えのないスマートフォンが置かれているのに気づく。
近づいて手に取る。
画面を点けると、ロックがかかっていた。
だが、壁紙には自分の写真——振袖姿の自分が映っていた。
「これ…私の?」
数字のパスコードを求められ、思い浮かんだのは、成人式で振袖を着た日のこと。
その日付を入力すると、ロックが解除された。
通知が溢れていた。
見覚えのあるような、ないような名前が並ぶ。
その中に、ひとつだけ目を引く名前——「シンジ」。
「彼、数時間前にここにいたはず…
このメッセージ、私が気づかないうちに送ったの?」
混乱しながらも、メッセージを開く決意をする。
指が震える。
理由は分からない。
でも、怖かった。
画面に表示されたメッセージを、ゆっくりと読み始める。
> 「ノゾミ、君は僕のことを覚えていないかもしれない。
> もしかしたら、もう二度と思い出せないかも。
> 君が最初に送ってくれた振袖の写真、覚えてる?
あの時の君は本当に美しかった。
今も、あの頃と変わらない。
次に会えたら、マーガレットを贈るよ。
君の好きな花だったよね?
僕はずっと君のそばにいる。
この繋がりが、まだ生きていると信じてる。
君にも、そう感じてほしい。」
読み終えた瞬間、胸がざわついた。
混乱、疑念、そして——なぜか、心臓が早鐘を打つ。
「振袖の写真を送った?
そんなに親しい関係だったっけ…?
彼は“夫”だと言ってたけど、どうしても信じられない。」
でも、何かが引っかかる。
言葉の選び方、文の温度。
記憶はないのに、心が反応していた。
その時——
断片的な記憶が、脳裏に閃く。
「…浴衣の写真、見たい?」
「うん、きっと似合ってると思うよ。」
「…ごめん、浴衣の写真見つからなかった。
代わりに振袖の写真、送ってもいい?
私にとって、大切な思い出なの。」
その記憶が蘇った瞬間、ノゾミは息が詰まり、床に崩れ落ちる。
手を伸ばして何かに掴まろうとした拍子に、棚の上の食器が落ち、大きな音を立てた。
すぐに看護師が駆け込んでくる。
「大丈夫ですか?音がしたので…!」
ノゾミは肩で息をしながら、答える。
「…うん、大丈夫。
ただ…何かを思い出して…
どう受け止めればいいのか、分からないの。」




