第32話 — 記憶の鍵、盗まれた言葉
「届いてほしい言葉ほど、危うい場所に残される。」
怒りに満ちたレンは、病室を飛び出し、病院の廊下を足早に歩く。
心の中で呟く。
「どうしてあんな奴が、平然と嘘をつけるんだ。
罰を受けるべきだ。
でも…僕に何ができる?」
その問いが頭を巡る中、彼は再びノゾミの病室へと戻る。
その途中、隣の廊下でシンジの弁護士が警察官と話しているのを見かける。
レンは耳を澄ませる。
会話は小声で、怒気を含んでいた。
「カメラの件、どうして何もできないんだ?
君に金を払ってるのは何のためだ?」
警官は困った表情で答える。
「もう監視されてるんです。
慎重にならないと…」
「彼女が記憶を取り戻したら、俺は終わりだ。
クライアントを失うわけにはいかない。」
「彼には自分の尻拭いを覚えさせるべきだ。
とにかく、やれることはやってみる。」
「俺は彼のベビーシッターじゃない。
父親の頼みとはいえ、限界だ。
報酬は彼次第なんだから。」
警官は不満げな顔でその場を去る。
弁護士は病室の前に戻り、レンも後を追う。
しばらくして、シンジが病室から出てくる。
医師たちも後に続く。
主治医がシンジに話しかける。
「黒沢シンジさん、状況は非常に繊細です。
奥様が記憶を取り戻す可能性は低いですが、
忍耐強く接していただく必要があります。」
シンジは涙を流すふりをしながら、声を震わせる。
「ありがとうございます。
僕が彼女を支えます。
僕のためにも、彼女のためにも。」
医師たちは別の病室へ向かう。
その直後、弁護士がシンジの肩を掴み、鋭い視線を送る。
「悪い知らせだ。
警察の協力が難しくなってきた。」
シンジの顔が驚きから怒りへと変わる。
眉を吊り上げ、歯を食いしばる。
「言い訳は聞きたくない。
今すぐ父に電話して、君の無能ぶりを報告してやる。
何があっても、俺は刑務所になんか行かない。
もしそうなったら、君も道連れだ。」
「声を抑えて。
外で話そう。」
レンはそのやり取りを見つめながら、ある言葉に反応する。
「携帯」——
それは、彼が唯一触れることができた“物”だった。
ポケットから取り出すと、ロックがかかっていた。
「パスワード…何だったっけ?
タクシーの中で、彼が何度も操作してた…」
間違ったパスワード。
もう一度——また間違い。
「次は失敗できない…」
ふと、ノゾミの誕生日を思い出し、入力する。
解除成功。
だが、喜びはなかった。
そのパスワードが“彼女の誕生日”だったことに、嫌悪感が湧いた。
「ノゾミの連絡先を探さないと…」
アプリを開くと、ゲームや筋トレ系のアプリばかり。
ようやく連絡先を見つける。
女性の名前ばかり。
ノゾミの名前はなく、ただ——
「ショートヘアの子」と記されていた。
レンは吐き気を覚える。
だが、今は集中しなければならない。
「ノゾミさんへ…いや、まだ違う。
彼女は僕のことも、シンジのことも覚えていない。
何を伝えればいい?」
思考を止め、心のままにメッセージを打ち込む。
「ノゾミ、君は僕のことを覚えていないかもしれない。
もしかしたら、もう二度と思い出せないかも。
君が最初に送ってくれた振袖の写真、覚えてる?
その時の君は本当に美しかった。
今も、あの頃と変わらない。
次に会えたら、マーガレットを贈るよ。
君の好きな花だったよね?
僕はずっと君のそばにいる。
この繋がりが、まだ生きていると信じてる。
君にも、そう感じてほしい。」
レンは、これが“シンジの携帯”だということを忘れていた。
ただ、ノゾミに伝えたかった。
その衝動が、彼の運命を大きく揺るがすことになるとは——
まだ、誰も知らなかった。




