第1話 – 雨の中の願い
「願いは、触れられない距離を近づける。」
小さな町の夜。静かな通り、控えめな会社、記憶のように並ぶ家々。
細く、絶え間なく降る雨が、一日の疲れを洗い流していた。
レンは仕事を終え、急ぎ足で帰路につく。片手にはスマートフォン。ノゾミへの最後のメッセージを打ち込んでいた——だが、送信する前に画面が暗くなった。バッテリー切れ。
彼はため息をついた。早く家に帰って、繋がりたかった。彼女との会話は、彼を生かしていた。遠くにいても、彼女は彼の光だった。
急ぎ足でバス停に向かい、濡れた屋根の下に腰を下ろす。
そのとき、隣に誰かがいることに気づいた。
フードを深く被った老女。動かず、まるでバスを待っているわけではないかのようだった。
彼女は顔を向けず、かすれた静かな声で言った。
「もし願いが一つ叶うなら…何を望む?」
レンは驚いた。雷のように突然で、静かな問いだった。
彼女を見たが、フードが顔を隠していた。
それでも、何かが彼の中で開いた。
そして、風に語りかけるように答えた。
「もし願えるなら…愛する人のそばにいたい。
僕には縛りはない。でも、彼女には壁がある。
僕たちを隔てる壁が。」
老女は黙って聞いていた。
そして、静かに呟いた。
「愛のために望むものには…代償がある。
その痛みに耐える覚悟はあるか?」
レンは悲しげに微笑んだ。
「僕はもう、彼女を苦しみながら愛している。
もっと苦しむことで彼女に近づけるなら、それは小さな代償だ。」
老女はゆっくりと顔を向けた。
その瞳は、まるで時間そのもののように深かった。
「愛のために苦しむことと、苦しみながら愛することは違う。
その代償が“存在を失うこと”でも、本当に望むのか?」
レンは一瞬ためらった。
だが、皮肉と痛みを込めて答えた。
「もしその願いが叶うなら…僕は愛のために苦しむし、苦しみながらでも愛する。 もし代償が“透明になること”なら…それでも構わない。」
老女は両手で彼の手を包み込んだ。
温かく、しっかりとした手。
彼の目を見つめながら、静かに言った。
「あなたの願いは叶えられる。
そして、代償は支払われる。」
レンは瞬きをした。
目を開けると、そこは別のバス停だった。
見覚えのない場所。
老女の姿は消えていた。
周囲を見渡し、戸惑う。
そして、彼女を見つけた。
ノゾミがスマートフォンを見ながら、通りを歩いていた。
「ノゾミ!」
彼は叫びながら駆け寄った。
「僕だよ、レン!覚えてる?」
彼女は歩き続ける。
スマホに目を落としながら、独り言のように呟いた。
「どうしてレンは返事しないの…?
もう仕事終わってるはずなのに…」
レンは立ち止まった。
心臓が高鳴る。
彼女には見えない。聞こえない。
「ノゾミ…僕はここにいる。
ずっと、君に会いたかった…」
彼女は信号の前で立ち止まり、また呟いた。
「私、何か嫌なこと言ったかな…?」
レンは泣きながら叫んだ。
だが、彼女は何も気づかず、信号が青に変わると通りを渡っていった。
彼はその場に立ち尽くした。
ポケットを探る。スマホを探す。
——何もなかった。
そして、理解した。
願いは本物だった。
代償も…現実だった。
願いは叶った。
でも、彼女の世界に僕はいない。
近くにいるのに、遠すぎる。
それが、僕の選んだ代償だった。