’11年8月30日■■:■■ -
墨帖与市は、人生最大の窮地にあった。
「情報収集がずいぶん早いのね。誰の差し金かしら、そこにいるやつ? 中のあいつかしら。それともあの子たちに言われてきた?」
「僕は、僕自身の意思でここにいます。“あなた”は……こんなことを楽しむたちだとは思いませんでしたが」
二人きりの結界は、ロマンチストにはとても嬉しい場所だろう。会場の形を保ちつつも、いつか見た結界がそのままに投影されている。よく見れば、コメント欄には現状を把握していると思しきものが流れていた。意識があいまいになり、何も分からなくなるはずの時間……そのタイミングですらなぜか動いている人外が、あの場にアクセスしているのだ。
「そもそも、なぜこんなことをしているんです」
「だって、見て? ここにはこんなに灰砂がいるのよ」
「カイサ……あれはカイサというんですか」
「灰の砂。忘れた感情や、失われた情報から生まれる、小さくて冷たい……“命の反対側”。実体がない、命もない、だから欲しがる。あの子たちは、フィノミナとか言ってたわね」
彼女が使う金魚とは違う、ゲームでよく見るゴブリンやハーピーのようなものが、会場をうろついていた。見つかり次第金魚に喰われているが、数は減らない。どこから湧いているのか、誰に付いてきているのかすら判然としない。
「カイサはなぜ現れるんですか」
「いつでも、どこにでも現れるわ。あなたはすべての記憶を覚えてる? パソコンにはこれまでのすべてのデータが入ってる? 幼稚園のときにもらったプリントは取ってあるかしら? そんなこと、ないわよね」
「しかし、まるで異常事態が起きているような口ぶりだ」
「ええ。だって、プリント一枚からはコバエほどの灰砂しか湧かないから」
人間大の灰砂が大量におり、減らない――仮にプリント一枚がコバエほどなのだと仮定しても、人間はコバエの何倍の体積があるのか、考えることさえできない。数万倍ではきかないだろう。
「あなたにも付いてるわね。誰がこんなもの仕込んでるのかしら」
「祓っていただけるんですね。ありがとうございます」
さっと手を払っただけで、少し重かった肩が軽くなった。デスクワークのせいかとも考えていたが、違ったようである。
「心当たりがあったり、は」
「“わたし”と仲がいいやつなんていないわ。だって、ほら……あれに立ち向かうことができる、と一瞬でも思えるかしら?」
銀河に腰かけている少女が、こちらへ手を振った。
「なっ、あれは!?」
「私の本体。前に名乗ったわよね?」
「ど、どうやってあそこまで大きく……?」
「たくさん食べてたくさん寝たら、大きくなるわ」
宇宙的単位を誇る大きさは、たった今彼女から説明された理屈と考えても合わない。光年単位でしか表せないような巨体が、ふわっと消えた。
「さて、と。あの子に返してあげなきゃ。時間はてきとうに延ばしてるからいいけど、あの子の思い出は大事にしてあげたいものね」
「それに対応している彼らは、いったい何者なんです……?」
「ああ、“鬼ちゃん”のこと? あれはこっちを認識できる人間とか、そういうモノね」
「とか、ですか」
祖母は「紫の目の女を娶れ、片目が黄色ならなおよい」と――とんでもない無理難題を言った。あまりにも意味不明なその言葉が、いったいどういった意味を持っていたのか。説明を求めた与市に対して、祖母は言った。
――お前を守れる女をそばに置いておきたかったの。だけれど、亜矢子はもう負けそうになっているわね。よく頑張ったから、私からもお礼を言っておくわ。
――与市、お前の苦難はまだ終わっていないわ。三十路を超えても危ないかもしれない。それに、亜矢子で足りないとは……私も思っていなかったの。
――“あれら”程度では足りない。どこかに降りてきている、紫の目の娘を娶りなさい。見つからなければ、あなた以外も巻き込んで……
――“八月三十二日”。その日が分かれ道になるでしょう。
昔から、霊感商法のようなことを言う人間ではあった。しかしながら、神矢亜矢子を雇い入れたのは祖母で、ちょうど老人ホームに入る頃の話だった……「お前を守れる女をそばに置いておきたかった」との言とは、矛盾していない。何より、彼女はつねに、カラーコンタクトレンズを入れたような、奇妙な桃色の瞳をしていた。それを咎められることもなく働いているというだけでも、どこか異様だった。
「僕の祖母が、“あなた”を娶れと。あなたは、それが正しいと思いますか」
「ふふふっ、ふふ。ええ、“わたし”はあなたが大好きだから、“わたし”はいいわ。そうね、あの子には思い出をぜんぶあげたいけど。これくらいは我慢しなくていいかしら?」
「っ……」
「これはあの子の体。キスも、デートも、それ以上も……みんなあの子にあげたいけど、ハグだけは私がもらうわね」
ぎゅっと与市を抱きしめた小さな体は、胸板に預けた口で小さく言う。
「もっともっといいとき、もっと素敵なシチュエーションで言ってあげたら? こんなにつまらないプロポーズ、“わたし”じゃなきゃ許してもらえないわよ」
「そうしましょうか。では、写真を――」
「それはダメ」
「えっ、どうしてです?」
あっち、と少女は指差した。
「順番よ。並んでね、それがここのルールだもの」




