ある日、王太子宮の別室で
宴が始まる前にエリザベスときちんと話をするべく、ルドヴィックは王太子宮のプライベートルームの一室に彼女を連れてきた。
侍女と護衛騎士に部屋の外で待機するように告げる。
レントン公爵家の侍女は承服しかねる様子だったが、エリザベスが命に従うようにと告げると頭を下げて退室して行った。
部屋には二人、エリザベスとルドヴィックだけが残される。
重い沈黙が部屋の中に広がった。
そういえば、婚約者候補として初めて顔合わせをした時も、最初はこうやって何も喋らず沈黙していたように記憶している。
あの時もルドヴィックからは得も言われぬ緊張感が伝わってきたが、今はまた別の緊張感が漂ってくる。
───後に殿下が、未来の妃になるかもしれない女の子と会う事が恥ずかしくて余計に緊張したとお話になってくれたけど。
今日は婚約解消を言い渡すために、どう切り出すかで緊張をしているのだろうか。
───共に歩んだ七年間が、こんな形で終わりを迎えるなんて……。
エリザベスの胸にどうしようもない虚しさが広がる。
前世の記憶が戻らなければ、最愛の婚約者が物語のヒロインに心を移すと知らなければ、何かが変わったのだろうか。
そう考えて、エリザベスは自嘲し首を横に振る。
───知っても知らなくても結末は変わらないわね。それどころか知らずに失態を犯し国外追放を言い渡されるのだがら、やはり思い出して良かったのよ。
知っていたからこそ衆人環視の前でなくこうして個室で二人だけでこの関係に終焉を迎える事が出来るのだ。
なぜルドヴィックが自分の瞳の色の衣装を纏い(しかもいつもより配分が多い気がする。もしこれが全身ミドリだったらさぞカメムシみたいでドン引きだっただろう)
こんなにも神妙な面持ちで緊張感を漂わせているのかも、解らないが。
───まぁもう何でもいいわ。早く終わらせてしまって欲しい……。
エリザベスはつきんと突き刺す胸の痛みを感じながらルドヴィックを見た。
そこに居るのは婚約者としてずっと共に歩んできた相手。
それももうすぐ別々の道を歩み始め、無関係な人間となってしまう。
───そう、もう何でもいい。わたくしとは関係なく幸せになればいい。
他人になったからといって不幸になる事を願うほどこの七年間は軽くはなかった。
自分とは別の女性とでも、幸せな人生を歩んで欲しいとそう思えるくらい大切な存在として接してきたのだ。
エリザベスは小さく息を調え、もうすぐ“元”が付くであろう婚約者を呼んだ。
「殿……「エリザベス・レントン公爵令嬢っ!!」」
「は、はいっ?」
エリザベスの声に被さるようにして逆に呼ばれた事に驚き、思わず変な声で返事をしてしまう。
そしてルドヴィックが見せた次の行動にこれまたエリザベスは変な声を出してしまった。
「は、はいぃっ?」
それも仕方ないだろう、ルドヴィックが流れるようなスムーズな所作で突然膝を折り、その場に座り込むような形となったのだから。
そして片手は胸に手を当て、片手は手のひらを上に向け、エリザベスの方へと掲げられている。
上半身は舞台俳優が跪き愛を乞うような姿勢だが、下半身は膝から下が床にぺたりとくっついているのだ。
とてつもなく珍妙な姿を見て、エリザベスは固まってしまった。
───こ、これは……東方の国の謝罪の作法であるという土下座というもの……?にしてはなんだか様相が違う気がするのだけれども。
何にせよエリザベスはルドヴィックの様子に度肝を抜かれ言葉を失くしてしまい、彼の次の出方を待つしかなかった。
かつてこれほどまでに真剣な眼差しを向けられた事があっただろうか。
いつもは穏やかで、公人としてではなく明らかに心を許してくれている私人としてのルドヴィックの砕けた表情を見ていた。
それを当然あのヒロインにも向けているのだと考え、どうしようもなく寂しくて虚しい思いをしたのだ。
だけど今ルドヴィックが見せているこの表情はなんだろう。
なぜそんなに……なぜそんな熱い眼差しで、射抜くように自分を見るのか。
───こんな殿下は……知らないわ……。
エリザベスは内心ひどく狼狽えた。
心が揺さぶられ、離別の覚悟を以ってこの場に挑んだというのに思わず怯みそうになる。
エリザベスはそんな自分を見透かされないように語尾を強めてルドヴィックに言った。
「なっ……何をなさっているのですかっ!一国の王子ともあろうお方が膝などついてはなりません!」
しかしルドヴィックは膝が汚れる事も自分よりも身分の下の者に見下ろされる事も王族として膝を折る事も厭う様子もなく、ただ一心にエリザベスを見つめていた。
そしてまるで今すぐ死んでしまいそうな声で告げた。
「エリザベスっ……全て、全て私が悪かった……!安定した君との関係の上に胡座をかき、怠慢で横柄な自信から君の信頼を失い、そして傷付けた……本当に、本当に申し訳なかった!頼む、この通りだ!どうか、どうか許して欲しいっ……!」
「………っ?」
───やはりこれは謝罪の土下座なのっ?で、でも何のための謝罪……?
すぐにでも婚約解消の話となると思っていたのに、ルドヴィックからのいきなりの謝罪だ。
エリザベスは確認するために敢えて訊ねる。
「……これは……この度の婚約解消はご自分の有責であると認められた上で謝罪をしてくださっていると判断してよろしいの?」
「違うっ!!婚約解消なんてしないっ!!私の妃になるは後にも先にもベスしかいないっ!!」
「それは、わたくしを正妃として、ドビッチ男爵令嬢を側妃に迎えるというおつもりですか?だけど彼女は……「それも違うぞベスっ!私は幼い頃からベス以外の者を娶るつもりなどないのだっ!」
「そ、それでは重婚になってしまいすわっ……まさかドウィッチ男爵令嬢を愛妾にっ?そ、それは恐らく陛下や王太子殿下がお許しにならないかと……彼女は希少な能力者で「愛妾にもしない!私はベス以外の女性と閨を共にするつもりは生涯ないっ!!」
「なっ………!?」
先程から自分の言葉に被せるように言ってくるルドヴィックからの特大爆弾発言にエリザベスは驚愕した。
これ以上ないほどに目を見開き、ルドヴィックを見た。
そんなエリザベスを見つめ返し、ルドヴィックは尚も焦燥感も顕に言い募る。
「父上から預かったドウィッチ男爵令嬢との接し方を間違えたのが私の人生最大の過ちだっ……身分差を感じさせない男爵令嬢の言動が物珍しくてついこちらも対応を見誤った。同い年とはも思えない幼い男爵令嬢につい子供に対するような感覚で親しみを感じてしまった……それが周りからどう見えるのかなど、深く考えていなかった……!」
「……一国の王子ともあろうお方が……なんと浅はかな事でしょう」
「本当だ。ベスの言う通りだ……ただ私が自分の愚かさを一番悔やんで憤りを感じているのは、それにより何よりもベスを不安にさせ辛い思いをさせた事だっ……」
「………」
「ベス…エリザベス……すまなかった。私が間違っていた……何よりも大切にするべき者に甘え過ぎてしまった私が全て悪い。だけどお願いだ。もう一度、もう一度だけチャンスをくれないかっ?君から失った信頼を……君から受けていたあの温かな愛情をもう一度取り戻したいっ……失いたくないっ……!愛しているんだ、エリザベス」
「………」
エリザベスは只々目を瞠り、言葉を失くしてルドヴィックを見つめていた。
───これは……これは、何が起きているのかしら……え、夢?わたくしは夢を見ているの……?
物語の筋書きとはあまりにも違うこの展開に、エリザベスの理解が追いつかない。
自分の前世の記憶は本当に確かだったのだろかと疑ってしまうくらい、目の前のルドヴィックが真剣な眼差しで許しを乞うてくる。
心変わりなどしていなかった……?
ヒロインとはあくまでも父王からの預かりものとして、ただ互いに無遠慮に接してしまっていただけだというの……?
伊達に七年間も一緒にいたわけではない。
ルドヴィックの性格の事はよく解っているつもりだ。
彼は今この期に及んで嘘を吐くような人間ではない。
ならばこれは間違いなく彼の、ルドヴィックの本心……。
だけどそれを不用意に信じ、すぐに彼を許してしまえるのは無理だとエリザベスは思った。
前世の記憶が邪魔をするのは当然ある。
今はこんな事を言ってもやはり物語の強制力で結局はリュミナを選ぶ、そう思ってしまうのだ。
───……だけど……。
だけど、ルドヴィックの言葉が、熱く真剣に見つめてくる彼の眼差しが嬉しいと思う自分がいるのも確かであった。
───どうする?どうすればいい?
エリザベスは目を閉じて前世の自分に問いかけた。
途中どれだけ筋書きが変わろうと、物語のラストは同じであると判断するべき?
そしてこのまま婚約を解消するべき?
それとも………。
その時、エリザベスの脳裏にプリムローズの屈託のない笑顔が浮かぶ。
自分が悪役令嬢の一人だと知っても、国外追放になる未来が待ってるかもしれないとしても、
彼女は婚約者の手を取った。
彼を信じると決めたのだ。
プリムローズの事だ、それがたとえ裏切られる形になったとしてもきっと自分で決めた事だと後悔はしないのだろう。
先程エクトルに向けていた、好きという想いが溢れて幸せそうに笑うプリムローズが瞼に焼き付いている。
「…………」
ルドヴィックはエリザベスの言葉を待っている。
急く事もなく、自分の思い通りになるように命ずる事も促す事もなく、ただ真摯にエリザベスが出す答えを待ってくれている。
エリザベスはそっと目を開け、自身の婚約者を見つめた。
そして静かに告げる。
「……許さない、許さないわ……」
「ベス……」
「だって、わたくし以外の女に名を呼ぶことを許して、いつも一緒にいた。公務と割り切っていたなんてわたくしは知らない。わたくしは貴方が彼女といる方を望んでいるのだとそう思ってしまったのだもの。そのくらい、貴方は彼女を優先していた」
「ごめん、ベスごめん……」
「絶対に許さない。本当に許して欲しいと思うならこれからも行動で、態度で誠意をもって示すべきよ」
「そ、それは……まだ私の婚約者でいてくれるという事、だろうか……?」
「わたくしがやっぱり貴方はダメだと思ったら、すぐにでも婚約解消をしてもらいます!それでもよろしくて?」
「……ああ!も、もちろんだ!それでもいい!それでいい!私にチャンスを与えて貰えるなら!ベスの側にいる許可を貰えるならっ!」
「許したわけでも、婚約解消の申請を取り下げる訳でもないですからね!」
「わかってる、わかってるよベス……!」
「……首の皮一枚繋がっているような状態なのに、なぜそのように嬉しそうなお顔をするのか理解に苦しみますわっ」
「薄皮一枚でもベスと縁が繋がっている、それが嬉しのだっ……!」
「もう!調子の良い事ばっかり言って!早くお立ちなさいませ!王子ともあろうお方がいつまでも床の上に座っているものではありませんわっ!」
「ありがとう……っありがとう、ベス……」
「ふん!ですわっ!」
エリザベスは薄ら涙を浮かべて破顔するルドヴィックを直視出来ず、思わずプイッと顔を背けた。
「………ベス……」
僅かに掠れたルドヴィックの声がエリザベスの耳に届く。
「なんですの?早くお立ちなさいませ」
顔を背けたままエリザベスがちらりと視線を向けると、いまだ正座したまま何やら辛そうにするルドヴィックがいた。
そして消え入るような声でエリザベスに言う。
「………足がっ……雷魔法を受けたみたいに痺れて動けないっ……ご、護衛騎士を呼んで来てくれないかっ……?」
「はぁぁっ!?」
裏ザベスの声が室内に響く。
宴の開始時間は差し迫っていた。
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正座の習慣がない西方人。
そら足が痺れて動けなくなりますわな。
エリザベス、足をツンツンしてあげないさい。
しかし補足とすると、エリザベスは本当に許したわけではないのです。