昔話
「あんた、なんで茶道なんかやろうと思ったのよ」
ある日、母が唐突に言った。
なんでと言われても困るのだが、私が茶道を始めたのは母が習い始めたからだ。そこで母の師匠から、やってみない?と誘われて始めたのである。
「なんでって、自分が習い始めたのにくっついて行ってたからでしょ?」
「いや、そうじゃなくって、ここまで本気にやるとは思ってなかったから聞いてみたくて」
あぁ、そういうことか。始めたきっかけではなく、本気でやろうと思った理由か。だが、改めてそう言われてみて、私は自分がどうして茶道を本気でやろうと思っているのか、考えなければならなくなった。
始めたきっかけは簡単なことだった。小学校に上がった時、母は陶器店を始めた。素人がやれるものではないと問屋などには散々に言われたらしいが、いいものを見抜く目を持っていたおかげか、ガラス製品問屋の面接試験に合格し、陶器の問屋を紹介してもらえて、始めることになった。
その店が軌道に乗ったころ、母は緑茶を扱い出した。
そのことを知った小学校三年生のときの担任だった賀茂先生が「お茶を扱うなら、茶道をやりなさい」と母に言ったのだとか。そして、賀茂先生が紹介したのが母の師匠、尾河先生だった。尾河先生は賀茂先生の娘である。今から思えば「娘の弟子取り」だったのかもしれないが、その頃は純粋に「さすが賀茂先生の娘さん!」と思っていた。
母が稽古に行くようになると、小学生だった私を置いて行かれるはずもなく、当然稽古についていくようになった。母が点てる抹茶を喫んだり、道具をみたりしていた。たしか、十畳ほどある広間の茶室に四畳ほどの水屋があったと記憶している。
ところが学校の先生を本業でしていたため、母が教授を取った後、教えることができなくなってしまった。それはそれで、違うのではないだろうか?と思うのだが、とにかくダメだということで、私の稽古は途中で止まってしまった。もちろんそれは先生だけの問題ではなく、私が千葉にある全寮制の中学へ進学したからということもあった。とはいうものの、流儀の茶会には出られるだけ出るようにはしていた。
それから月日は流れ、とある日、尾河先生の娘さんが、教授になったので、披露の席を持つという連絡を受けた。人手が足りないので手伝ってほしいとのことで、そりゃ当然手伝いますということなのだが、どうも雲行きが違う。
「お点前してほしいのよ」
「はいぃぃぃぃぃ?」
そりゃそうだ。流儀では奥伝以上でなければ点前はさせられない決まりである。ウチの流儀で奥伝以上というのは、棚物を総て習い終わっているということであり、台子の稽古をしていますということなのだ。
「先生、息子は何にも資格取ってないですよ」
さすがに母がフォローに入る。が、尾河先生は全く動じていなかった。
「言わなきゃわかんないわよ」
そりゃそうですけどね。小学生のころからずーっと出入りしているし、お茶会にも行っている訳で、多くの先生方が顔を知っている。まさか何も資格を取っていないとは思っていないだろう。
「だって、他にお点前してくれる人いないのよ」
仕方なく、点前をお引き受けした。
それからが大変だった。なにせ、稽古はしばらくしてない訳で、点前の順序すら忘れている始末。これはまずい……と、毎週土曜日に、朝早く起きて、着物を自装し、尾河先生の御宅まで出かけて稽古と自主練。当時はマンション住まいだったし、母も地元を引き払って近くのアパート暮らしだったから、稽古できる場所なんてなかった。
先生も先生で、娘の披露で必死だったのだろう。私に稽古をつけてくださった。二か月ほどの猛特訓で、なんとか点前も様になっていた……と思う。
当日は、御両器を揃えてから水を差すのを忘れてそのまま素知らぬ顔で下がってしまったのだが、それはまた別のお話し。
この後、私は家元先生の計らいで、葛西宗匠に預けられ、資格を取って葛西宗匠の弟子となった。しかし、このことがなければ、葛西宗匠の所で稽古しなければという気にならなかったかもしれない。
それにしても恐ろしいのは賀茂先生だ。
「龍樹くんがお茶を習うなら葛西先生に付けます」
母はそう宣言されていたらしい。私が葛西先生に習いに行くようになった頃には既に亡くなって居られたが、教授をとってから、墓前に参じた。
「先生の言った通りになりましたよ」
オホホホホホと、可愛らしく笑う賀茂先生の笑い声が聞こえたような気がした。