茶道具
母が腰を痛めた。
この夏、冷房を使い過ぎた所為だと云う。
私からすると、今年は冷房を弱めて使っているのだが、どうも年齢や性別の差を超えた違いがありそうな気がしている。
そんな折、大和骨董店というところで買った茶道具が届いた。私の不在の時に。
私は昼間仕事をしている訳だから、家にいない。そのため、ヤフオクで注文した場合、土日の午後〇時~二時の指定をお願いしている訳だが、ここはどうしてか、いつも平日に届く。
さすがに母も据えかねたのか、苦情を言ってきた。
「アンタ、平日にまた届いたわよ!」
険のある物言いだった。
母としても、私が土日指定していないはずはないと思っているのだが、現実に土日以外に届いていることに対する苦情だ。私は謝罪しつつ、私の責任ではないことを説明するが、母は当然、納得しない。
こんなことで親子喧嘩?と思われるかもしれないが、こんなことが親子喧嘩のきっかけになる。
その上、最近私は安価に見つけた茶道具を大量に購入している。しかも、小遣いの前借で。
「いいかげん、しばらく茶道具を買うのを辞めて頂戴!」
「どうしてさ、小遣いの範囲内で買ってるよ?」
「置く場所がないでしょ!」
置き場は確かにない。
狭い都心の一軒家である。その上、茶道の稽古場に一部屋使ってしまっては、物が溢れかえるばかりだ。しかも先日届いたのは葭棚。
この葭棚というのは、千家流以外でも使われる棚で、京間畳の短辺の大きさがある。つまり三尺一寸五分=九五五ミリ、ほぼ一メートルである。それが横幅で高さは七〇〇ミリ前後。相当に大きな棚なのだ。そのため、一般の家庭で教授する茶人でもなかなか持っている人は少ない。仕舞う場所に困るからだ。
その上、茶事(茶懐石)の道具にも手を出している訳であり、収納する場所がないと母が悲鳴を上げるのも無理はなかった。
茶道具というのは、コレクション性があり、骨董に分類されるものも多いため、どうしても数が集まってしまう。しかも教えるとなれば、一通りの道具が必要になるものであり、この一通りというのが生半可な数ではない。
茶道は求道として行われる修行であるから、抹茶を飲むだけなら、修行は必要ないのであるのが、一般には誤解されているようで惜しい。気軽に飲んでもらえれば、抹茶の旨さはもっと伝わるのだろうに。
母になんと言われようと、道具は買い続ける。
もう少しで十二回分の道具が一応揃う。
そうすれば、あとは釜を掛ける(茶席を持つこと)時に使うことのできる道具を揃えて行けばよい。
そんな時、ふっと師匠が仰っていた先代の言葉がよみがえる。
「お茶なんて鼻から飲まなきゃいいのよ」
えらくぶっきら棒に聞こえる言葉であるが、なかなか含蓄のある言葉でもある。
江戸っ子で、「し」と「ひ」が入れ替わってしまうという方ではあったが、茶道のことはとても詳しく知らぬことがないような方だったという。
そういう方だからこそいえた言葉なのであろう。
しかし、そうでないともいえる。
つまり、門人以外は、茶道の作法を用いずとも口から飲んでおいしければよいのだという、本懐である。
茶が美味いこと。
それこそが茶道にとっても、最も大事なことなのだ。
湯の沸き加減、水の質、その日の湿度、天気、客の体調、好み。
そういったものを察して、点て加減と匙加減、湯量を調整する。
そうして出された茶は、まさに一期一会の一服になる。
そんな茶を点てられる日が来るだろうか。
じっと、新しく買ったお気に入りの神懸焼の茶盌の底を覗き込みながら思うのであった。
「次は……」
次に買うものは、伊賀か信楽か備前の大水指に狙いたい。