愛する人のために何を失えますか?
おしどり夫婦などと周りからはよく言われるが、俺と妻の日葵は別に大恋愛の末に結婚したわけではない。
たまたま隣の家に生まれ、同じ学校に通い、高校入学の引っ越しでしばらく疎遠になったが、同じ職場で再会した。
お互い彼氏、彼女がいなかったのもあるだろう。一緒に過ごす時間が少しずつ増えていくと、隣にいるのが当たり前の存在になっていた。
結婚が決まった日の事も今では笑い話だ。
二人で映画を見た帰り道。
俺は歩きながら特に意識もせずに呟いた言葉。
「このままずっと一緒にいれたらいいな」
別に答えが欲しかったわけでもなく、ただその時の気持ちが溢れただけだった。
「それってプロポーズ?」
日葵としても冗談めいて返した言葉だったらしい。
でも俺の胸にストンと落ちるものがあった。
「あぁ、そうだな」
日葵が無言のまま笑顔で応えると、その足でお互いの両親に会い結婚が決まった。
赤ん坊の時から知っている親達だ。反対の言葉は一言もなく、むしろ主役の俺たちを差し置いて、宴のように酒盛りが始まってしまった。
俺も日葵も呆れて顔を見合わせたが、そんな両親達を見て幸せな気持ちになった事を忘れることは無いだろう。
結婚してからも日葵と過ごす生活は、当たり前のことを幸せだと感じさせてくれる。
だが、結婚して一年が過ぎた頃。その平穏は突然奪われた。
「あと......三か月ですか?」
「えぇ。残念ながら」
体調を崩した妻を連れて行った大学病院の一室。神妙な面持ちの医者から告げられた残酷な宣告は、俺を絶望の淵へと追いやった。
結婚してまだ一年。「そろそろ子供が欲しいね」なんて会話をしていたのが噓のようだ。
医者は聞いたこともない病名とその症状を説明していたが、俺の混乱した頭では理解することが出来なかった。
「どうにか……どうにかならないんですか?」
「この病気の治療薬は残念ながらありません。痛み止めで苦痛を和らげ、なるべく平穏に余生を過ごすことをお勧めします」
「お願いします。妻を……を日葵をなんとか……すぐって……うぐっ」
俺はそのまま医者に縋りつくように泣き崩れた。
分かっている。世の中にはどうにもならないことがあるって。でもそれを受け入れることが出来ない。
——なんで——どうして日葵が。
その思いだけが俺の頭を埋め尽くしていた。
「奥様にはまだ何も伝えていません。もちろん私の方からお話させてもらう事もできますが」
「……少し。少し考えさせて下さい」
そんな会話の後、俺は部屋を出た。
これは悪い夢じゃないかと通路の壁に頭を打ち付けると、現実を知らせる無情な痛みが広がる。
涙を堪えられなくなった俺は、人けの無いロビーの椅子に座り込み嗚咽を上げた。
どれだけの時間が経っただろう。
流れる涙も無くなった頃、俺の耳元で何かが囁いた。
『僕が彼女の寿命を延ばしてあげようか?』
垂れ下がった頭を起こすと、暗闇の中に蠢く何かがいた。
まるでその空間に存在しないような希薄さを持った、黒い糸の集合体。
普段なら腰を抜かして逃げ出すようなソレに俺は問いかける。
「妻を救えるのか?」
『うん。僕なら救える』
「じゃあ今すぐ妻を救ってくれ」
『そう焦らないでよ。物事には順番ってものがあるでしょ? 救えるとは言ったけどタダとは言っていないからね』
「......金か?」
『僕の姿かたちを見てそれはないでしょ?』
まるで全身で笑っているようにソレは体を震わせた。
『人間ってのは欲深い生き物だよね。何かを求めるにはそれ相応の対価が必要ってのを忘れちゃう。そうだね、君のその健康な左手の小指。その感覚を僕にくれるのなら、彼女の寿命を一年延ばしてあげてもいいよ』
「左手の小指? そんなもんでよければいくらでもくれてやる。だから日葵を救ってくれ!」
俺の言葉にソレはピタリと動きを止めた。
空気が張り詰めるような静けさの後、目の前から小さく不気味な笑い声が漏れた。
『くっくっくっくっ。じゃあ契約は成立だね。言っておくけど今回の契約で延びる寿命は一年だからね。別の原因で死ぬことは僕の管轄外だから』
ソレの体が膨張したかと思うと抗うことの出来ない眠気に襲われ、俺は意識を手放した。
気が付いた時には電気も消え、薄明かりのロビーに俺は一人座っていた。
「夢......か」
冷静に考えれば馬鹿馬鹿しい話だ。 俺は自分自身に呆れながら顔を両手で覆った。 ほんの僅かな違和感。 でも確かに小指の感覚は無かった。
顔には感触があるのに、左手の小指からは何も伝わってこない。
そんな馬鹿なと思いつつも、 俺の足は日葵のいる病室へと駆け出していた。
「日葵!」
扉を開けた先にはポカンとした顔の日葵がいた。
「日葵、大丈夫か? 体はどうだ?」
「えっ? 蓮くん。朝早くからどうしたの?」
「だから、体は、体の調子はどうだ?」
「えっ。あー、うん。一晩ぐっすり寝たから良くなったよ。えっ、ちょっ、ちょっと、蓮くん?」
俺は何度も何度も日葵を抱きしめた。
今度は嬉しさで顔をくしゃくしゃにしながら。
医者は驚いていた。
昨日まで確かにあった病巣がレントゲンから消え去っていたからだ。
念のためにMRなどの精密検査を行なったが、異常は見つかることはなく日葵は退院を迎えた。
平穏を取り戻した俺たちは幸せに暮らしている。
あれは夢か幻だったんじゃないかと思う時はあるが、俺の左手の小指は相変わらず感覚のないままだ。
もちろん日葵にはあの日に俺の身に起きた奇妙な出来事を話していない。
話せば何かが崩れ去ってしまう。そう感じたからだ。
ただ、俺の左小指がおかしい事には気付かれて、病院に通う羽目にはなったが。
原因不明と言われたが、俺はすんなりと受け入れた。日葵が元気でいる以上、治したいとも思わなかった。
幸せな生活が続いたが、子供には恵まれず不妊治療を始めようとした頃、日葵の体調が崩れ出した。
あの日から一年。まるで期限を知らせるように。
去年と同じ病院に入院すると、医者から前と同じ病気だと告げられた。
一年前と寸分も狂う事もなく、同じ場所に病巣があると。
俺は日葵には何も告げなかった。
薄れた記憶に残るあの日のソレの言葉。今回と言ったからには、またやってくると信じながら。
俺の願いが通じたのか、寝ていても呼吸の荒い妻を看病していると、再びソレは現れた。
『一年振りだね。この一年は楽しかったかな?』
「……次は何が欲しいんだ?」
『急かすなぁ。でも話が早くて助かるよ』
実に嬉しそうに糸のような体をくねらせたソレはくつくつと笑った。
『そうだね。次は全身の触覚がいい』
「——なっ!? この前は小指だけだっただろっ?」
震えがつま先から全身に広がっていく。
どこかで俺はタカを括っていたいたのだろう。例えば薬指とかその程度だろうと。
『あれは初回サービスだよ。でも、その見返りの大きさはこの一年で実感したでしょ? まったく、話を急ぎ過ぎるのは君の悪い癖だね。全身の触覚っていってもそれはたった一人に対してだけさ』
「たった一人?」
『そう。彼女の寿命がまた一年延びるかわりに、君が彼女に触れても何も感じなくなる。ただそれだけだよ』
「それだけって……」
日葵の温もりや感触。
それをもう二度と感じられない苦しさは想像もつかない。
だが結局のところ俺には選択肢などありはしない。
例え俺の身がどうなろうとも、日葵には生きていて欲しいんだ。
「……分かった。頼むから日葵の命を救ってくれ」
『じゃあ、契約成立だね』
一瞬、何かが俺の体を通り抜けるような感覚を覚えると、ソレは消えていた。
寝ている日葵を見れば何事もなかったかのように呼吸は落ち着いている。
また一年、一緒にいられる。
そっと日葵の頬に手をやり俺は静かに目を閉じた。
何も感じない。
それが温かいのか冷たいのか。固いのか柔らかいのか。一切の情報が分からない。
他の物を触ればいつも通りの感触なのに、日葵だけが感じられない。
すぐそこにいるのに別世界の存在なってしまったかのように。
ゆっくりと目を開ければ安らかそうな寝顔。
そうだ。俺は間違っていない。
日葵はここにいる。
失うことの方がよほど辛い。
俺はそう自分に言い聞かせた。
退院の時、医者にはもう関わりたくないといった表情をしていたが、無理もないだろう。
自宅に戻ってからの日葵はいつも通りだった。
変わったのは俺の方。無意識のうちに日葵に触れることが少なくなる。なるべく自然に接するように心がけたが、触る度に突きつけられる現実は何度も耐えられるものではなかった。
日葵も俺の異変にはすぐに気付いただろう。
だが病院に行ったところで妻の感触だけが分からないと言えるはずもなく、俺は自分の身に起きたことは喋ることなく病院に行くふりだけをして誤魔化した。
不妊治療を理由に夜の生活も激減させた。
はっきり言って日葵を抱くことは苦痛でしかなかった。
視覚と聴覚の興奮だけで何度かはこなしたが、抱いた後の絶望と虚無感は俺の心を何度も砕いた。
だが辛くはあったが不幸では無かった。
本当ならすでにいない日葵がそこにいる。
何気ない会話にその時に見せる笑み。
それだけでも俺の心を十分に満たしてくれる。
あの日から一年後。
やはり妻が体調を崩すとソレは現れた。
『中々に大変だったみたいだね』
その言葉に怒りが湧いたが、これは自分自身で選んだ道だと言い聞かせる。
ソレが現れた以上どんな要求をされるか分からないが、日葵の命をまた一年延ばすことが出来るのだから。
「次は何が欲しいんだ?」
『そうだね。実は前回はやりすぎたかなって反省してたんだ。だから、君の種を頂戴』
「種?」
『そう子種だよ。君は子供を作れなくなるけどいいだろ?』
「分かった」
俺は迷わなかった。もともと選択肢が無いとしても、俺は逃げたのだ。
俺に原因があって子供が作れないのならと言い聞かせながら、本心ではこれで日葵を抱かない理由が出来たのだと逃げたのだ。
不妊治療で病院に行き、医者から無精子症と言われて正直胸を撫で下ろした。
夜の生活が無くなったことを日葵が何も言わないのは、俺を気遣っての事だろう。
罪悪感が芽生えたが、俺は日葵の優しさに甘えてしまった。
むしろ子供のことで問題になったのはお互いの両親だった。
孫を見せてやる事が出来ない悲しみ。
日葵の両親からは責められると覚悟はしていたが、日葵が上手く話したこともあり、二人が幸せならそれでいいと納得してもらえた。
ふと考えてしまう。
俺は日葵に生きていて欲しいと願った。
でも日葵は幸せだと思ってくれているだろうかと。
結婚三年で夜の生活はほぼ無くなり、子供も授かれない。
もし日葵と離婚してもソレが現れてくれるなら、俺は何を失っても生かし続けるだろう。
子供を作れない俺と離婚した方がいいんじゃないかと日葵に話すと、泣きながら頬を叩かれた。
私が一生一緒にいたいのはあなただけだと。
二人して泣いた。
謝り、泣いて、その後は二人で笑いながら泣いた。
俺の体の異変も、日葵に触る感触がおかしい事も話した。
全てでは無いが、ちょっとでも日葵との信頼を戻せるように、それでも愛してると伝えたくて話した。
だが、ソレについてだけは何も話さなかった。
話せばそのまま契約が切れ、日葵が死んでしまう気がして。
また一年が過ぎると、決まったようにソレは現れる。
『やあ、また一年が過ぎたね』
「あぁ、感謝はしているさ。で、次は何が欲しいんだ?」
『そうだね。君の聴覚をちょうだい。もちろん全部なんて言わないさ。君の聴覚の一部さ』
俺はその場に崩れ落ちそうになった。
日葵の言葉が聞こえなくなる。
覚悟はしていたが、果たして俺はその生活に耐えられるだろうか?
『おっと。誤解させちゃったかな? 別に彼女の声が聞こえなくなるんじゃないよ。そんなことしたら君に希望なんて無くなるもんね』
「じゃあ一体その一部ってのは何なんだ?」
『それはね、彼女の声色、君が彼女の声と識別してるものだ。もちろん彼女が何を話しているのかは理解できるよ。ただ彼女の声と認識出来ないだけだ』
俺は上手く分からないままに頷いた。
日葵を生かすためなら、どんなことでも受け入れようと。
ソレが消えて日葵の声を聞いた時、俺はようやく言っていた意味を理解した。
男の声か女の声かも分からない声。喋っていることは分かるのに、起伏のない言葉だけが俺の耳に届いた。
どれだけ話をしても慣れることが出来ない声。
日葵には耳の調子が悪くなったと伝えたが、多分会話の度に俺の表情が歪んだりしているのだろう。
日葵の寂しげな顔を見る事が多くなった。
その頃から本当に少しずつだが、夫婦の会話が減ってきたのだと思う。
会社の仕事が忙しいからと帰る時間が遅くなり始めたのもそのせいだろう。
もう何が正しいのかが分からない。
何が幸せで、何を成したいのか。
俺の自問は終わる事はなかった。
このやり取りも何度目だろうか。
決まって五月に現れるソレは、まるで慣れ親しんだ友のように話しかけてきた。
『やあ。元気にしていたかい?』
「あぁ。お前と出会ってからどのくらい経った?」
『十年だよ』
十年……か。
日葵はまだ元気に生きている。
『随分と君からはいろんなモノを貰ったね』
「あぁ、随分と奪われた」
日葵の感触を奪われた。
新しい家族を授かることを奪われた。
日葵の声色を奪われた。
日葵の顔を奪われた。
その後も色んなモノを奪われた。
日葵の匂いを感じる事も。日葵の顔を見る事も。
もう日葵を日葵と認識出来るものは何一つ残っちゃいない。
ただ生きていて欲しいとの思いでここまでやって来た。
『うん。だからもう君から貰えるものがないんだ』
「——待ってくれ。まだ何かあるだろっ!?」
突然の終幕に俺は慌てた。
そりゃあもう差し出すものなんか何もない。
でもこれで終わりと割り切ることも出来なかった。
『ふうーっ。分かったよ。君とは長い付き合いだもんね。これが最後だよ。君の記憶を頂戴』
「記憶?」
『そう。彼女に関する記憶だよ』
記憶を失えば、もう俺が日葵を認識することは出来ない。
接する事も、話す事も、夫婦でいる事も出来ないだろう。
ここが引き際だと囁く自分がいる。
例え日葵の寿命が延びなくても、最期まで夫婦でいることに意味があるんじゃないかと。
日葵もそれを望んでるんじゃ無いかと。
俺は悩み……迷い…………答えをソレに伝えた。
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「あなた。気がついたのね」
聞きなれない声に反応して目を開けると、そこには見たこともない女性がこちらを覗き込んでいた。
いや、声色と雰囲気から女性と判別したが、彼女の顔は酷く爛れていた。過去に火事か何かで火傷にあったのかもしれない。
「良かった。心配したのよ」
急に抱きつかれたが、俺には覚えのない人だ。
ただ……懐かしい匂いと感触が俺の心に広がっていく。
「すいません。あの……貴方は一体誰ですか?」
「うん。うん。大丈夫だから。私がずっとそばにいるから」
彼女は俺の問いかけには答えず、自分では納得してるように言葉を発していた。
俺は彼女を知らない。
だけど……。
俺の心は驚くほど穏やかで、とても心地よい気持ちに包まれていた。
「彼は幸せそうに逝きました」
『うん。良かったね。君も頑張ったもんね』
女はいろんなモノを犠牲にしてきた。
ある日を境に左腕の感覚を失った。
ある日を境に子供を産めない体になった。
ある日を境に掠れた声しか出せなくなった。
ある日を境に美しい顔を失った。
他にもいろいろなものを失ったが、女は満足そうに微笑んだ。
「彼と過ごせた十二年、本当に幸せでした。ありがとうございました」
『いいんだよ。思い返せば君とは随分と長い付き合いになったね。名残惜しいけど、そろそろ君の寿命を貰うよ』
「はい。次は天国で幸せに暮らします」
黒い糸の集合体のようなソレが女を覆い尽くすと、煙のように消えていった。
お読み頂きありがとうございました。
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