二日目の朝
ちょうどいい具合に夕飯を食べ、ぐっすりと眠ったからか、目を覚ますと昨日の疲れはすっきりと消え、頭も冴えていた。ぶるる、と体を震わせる。寝巻として貰った服は少し薄手だったようで、少し肌寒い。上に羽織れる物が部屋には無かった為、使っていた毛布を半分に折って肩に掛ける。窓の外はまだ薄暗く、日もまだ昇っていないようだ。鳥の声もまだ聞こえず、辺りは静寂に支配されている。しばらく外をぼんやりと外を眺めていると、何処かから何かが風を切る音が僅かに聞こえて来た。僕はその音の出所が少し気になり、昨日の夕食の後に、寝巻と共に貰った靴を履いて窓から外に出た。
時々聞こえる虫の声を聞きながら、風景を眺めて歩く。僕の部屋からは見えなかったが、所々の空に、島のような物が浮いていた。
(本当に別の世界なんだな…)
もう何回目になるかも分からない、元の世界には無い物を目にし、馬鹿みたいなこと思った。
角を曲がると、ジェシカがいた。先端に重りが付いた棒を、前方に突き出し、そのまま振り上げ、振り下ろし、引き戻してすぐさま突き、薙ぎ払い、切り返し…。棒が綺麗な軌跡を描きながら何度も、何度も空を切る。それに合わせ、彼女の体も美しく動く。僕はただ茫然と、その棒と彼女の淀みない動作を眺めていた。やがて彼女は動作を止め、僕を見た。
「…ごめんなさい。そんな見詰められると、流石に恥ずかしいわ」
「――えっ、あっ、ごご、ごめん!その、あんまり綺麗な物だから、つい…」
僕は慌てて視線を外し、しどろもどろに言い訳をする。
(いや、何が綺麗な物だからだよ!気持ち悪がられたらどうするんだ、馬鹿!)
冷静さを欠いているからか、加えて訳の分からない内省を始めてしまう。
「…興味、あるの?」
彼女は少し荒い息を押さえつつ、僕に問い掛けた。
「え?」
「興味あるなら、教えましょうか」
「いや、興味はあるけど、僕はこれまで運動をした事が殆どないし、それに、…君の迷惑に、ならない?」
「そんな事なら、気にしなくていいわ。ここに来てから、手合わせする相手もいなくて、こうして素振りしたり、獣相手に振ったりしか、なかったし。むしろ相手になってくれるなら、私としたらありがたいわ」
それに、と彼女はぼそっと呟くが、首を振って言葉を飲み込んだ。
「なら、やってみたい、かな」
「じゃあ決まりね。貴方が良ければ、明日からでも始めましょう」
彼女が言い終えると共に、僕たちの目を、美しい暁光が差した。
「夜明けね。せっかくだから、朝食の準備、手伝って貰えるかしら?」
「うん、分かった。宜しくね、ジェシカ」
「こちらこそ宜しく、ユイト」
一度神殿に入り、ジェシカに今日の分の衣服を貰ってから、神殿の裏へ向かう。神殿の裏には家庭菜園にしてはかなり広めの畑が広がっていて、トマトやナス、スイートバジル等といった、見慣れた野菜が生っていた。
(元の世界と同じ物もあるのか。そう言えば、昨日ジェシカも『羊』って言ったっけ)
それが元の世界の羊と完全に同じかどうかは分からないけれど、元の世界と同じ物がる事は紛れもなく事実のようだ。案外、この世界とあの世界は、近い所に位置しているのかもしれない。世界に近いとか遠いとか、距離的な概念が存在するのか分からないけど。
「さ、まずはトマトを幾つか摘みましょう。朝の日が差す頃に採った物が一番美味しいのよ」
それは何かの本で読んだ事がある。植物は夜の内に果実や芋等の栄養を貯蔵する器官に栄養を溜め込み、朝日を浴びると共に、その栄養を使って成長するんだそうだ。そんな知識は頭の中に湧いて出て来るが、肝心な食べ頃のトマトやナスがどれなのか、僕には判別が付かない。格好悪い事に、収穫の役に立てそうになかった。
「なら、私が教えるから、心配ないわ」
僕の手を引いてトマトの前に立たせ、手の中に鋏を滑り込ませた。
そこから一時間くらい、彼女に教わりながら、トマトとスイートバジル、見た事ない豆を収穫し、畑の隣に放し飼いにされている鶏が生んでいた卵を四個頂戴してキッチンへ向かう。キッチンと言っても、当然コンロとかレンジとか、近代的な設備はある訳も無く、竈やテーブル、囲炉裏のような加熱調理器が設置されている。どれも小まめに清掃されているのか、古めかしいが清潔が保たれている。
「じゃあ、まずこの豆を鞘から取り出して」
ジェシカはさっきの豆を僕に渡す。
「その間に私はスープの下拵えをしておくから」
「分かった」
豆を受け取り、鞘を剥き始める。枝豆より一回り二回り程大きなそれは、鞘が固く意外と剥くのに力を要した。ちらっとジェシカの方を見ると、水を沸騰させつつ、岩塩、胡椒、何かの干し肉を準備し、岩塩をナイフで削って粉末状にしていた。うかうかしていたら彼女の迷惑になりそうなので、慌てて豆剥きに戻る。そうこうしている内に、彼女はトマトを切り始めた。まずい、少し遅れそうだ。僕は豆剥きにのみ意識を向ける事にした。
僕が豆を剥き終わった頃には、彼女は竈に火を入れていた。見れば、スープの材料は準備し終えていたらしい。トマトは細かく刻んでスープの中に、干し肉は一部を小さく、薄くスライスしてこれもまたスープへ。卵は白身と黄身の境が無くなる程しっかりと溶かれている。
「豆剥き終わったのね。ありがとう。次は、干し肉を薄くスライスしてちょうだい」
「あ、ごめん。僕、ナイフを使った事ない…」
「…」
マジかよ、と言いたげな視線を感じるが、下手な事して余計な迷惑を掛けるよりはずっといい、と自分に言い訳をしておく。うう、胸が痛い。
「分かったわ。教えるから、少し待って」
彼女は僕の世間知らずと言うか常識外れと言うか、そんな所に慣れて来たのか昨日よりも固まる時間が短くなっていた。再び竈に火を入れる作業に戻る。火が付いてからしばらく様子を見守り、小さく頷くと竈の前を離れた。
それから彼女の教えを受け、不格好ではあるけれど干し肉をスライスできるようになった。しかし、ただの足手まといになってないか、僕。少し所では無くいたたまれなくなる。彼女は大して気にした様子も無く、スライスした干し肉をパンに挟み、竈に入れる。トーストにするのだろうか。やがてパンの焼ける芳ばしい香りが漂い、空腹感を刺激する。グウウウウゥゥゥ、と、昨晩と同じ音が僕の腹から聞こえ、再び気恥ずかしくなって俯いた。どうやら、僕のお腹は随分と食いしん坊になったらしい。いや、これが普通なのだろうか。くすくすくす、と鈴を転がすような笑い声が聞こえ、ジェシカの方に目を向けると、後ろを向いて、口元を押さえプルプルと震えている。
「…笑わなくても、いいじゃないか」
「ご、ごめんなさい。ただ、ふふ、貴方の反応が可愛らしかったから、つ、つい…」
言いながら笑ってるし。ああでも、少し気恥ずかしさは薄らいだ。
「さ、パンが焼けたわ。兄さんもそろそろ起きて来るし、トマトスープを完成させて食卓に持って行きましょう」
トマトスープに溶き卵をトマトスープに回し入れゆっくりと混ぜる。すると溶き卵はみるみる固まって、まるで柔らかな布のようになった。更に胡椒を入れ、少し煮込む。
「胡椒は熱し過ぎるとえぐみが出てしまうから、煮込み過ぎないのがコツね」
「え、うん?急にどうしたの?」
「随分熱心に眺めてるから、興味あるのかと思って」
「ああ、そう言う事ね。いや、料理してる所をじっくりと見た事って無いなあ、と思ってさ」
「あら、そうだったのね。余計な事を言ってごめんなさい」
「いやいや、普通にありがたいし。そんな事で謝らないで」
やっぱり、ジェシカは随分と腰が低い。昨日アートが言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。彼女の家に入り浸って、結果半ば勘当されてしまった。もしかしたら、彼女の腰の低さは家族に原因があるのかもしれない。
(いや、これ以上の詮索は止そう)
本人も思い出したくない事かもしれないし。
「さ、出来たわ。食卓に持って行きましょう」
彼女はトマトスープの鍋を持ち、僕はトーストの入ったバケットを持って行く。トマトスープを器に分けている所で、アートがやって来た。
「ふあ、おはよう。ジェシカはいつもの事だけど、ユイト君も朝早いんだねえ…」
窓の外に目をやると、朝焼けの時間はとうに過ぎて、それなりの高さに太陽が浮かんでいる。眠たそうに眼を擦るアートの髪は、ひとしきり暴れた後のライオンのようにぼさぼさになっていた。
「おはよう、アート。髪凄いよ」
「おはよう、兄さん。どうせ、また遅くまで魔法の研究してたんでしょう。たまにはご飯の用意を手伝ってくれないかしら」
「いいかい、妹よ。魔法の発展、それ即ち社会の発展だ。朝食の準備と社会の発展、どちらが重要かなんて、お前なら分かるだろう?」
アートはいかにも芝居がかった仕草で答える。
「そんなこと言って、どうせ自分の欲を満たしたいだけのくせに。お皿洗いは兄さんがやって下さいね」
「兄さんの質問に答」
「宜しく、お願い、しますよ?」
「はい、仰せのままに。麗しき妹様」
仰々しくお辞儀をする。
「馬鹿な事してないで、早く座ってご飯を食べなさい」
「はい。…頂きます」
「「頂きます」」
こうして、二日目が始まった。