ギムレット
1
暗い店内に乾いた鈴の音が鳴った。扉に目を向けるとスーツ姿の若い男が入ってきた。店内は暗くてあまり見えないが自分より三つほど年上だろうと思った。男は自分と席を一つ空けて隣に腰かけた。店主と仲が良いのか、親しげに挨拶していた。店主の男も若く、二人は同級生なのかもしれない。
スーツの男が「今日は警察が多いね。ここに来るまでにパトカー三台も見たよ」と特に興味もなさそうに言った。店主も「俺は何も知らない」と関心もなさそうに言った。
たまたま入ったバーは、カウンター席が八つほど並んでいるだけの小さなバーだった。入口からカウンターが奥に伸びる縦長な店で、自分が店に入った時は誰もいなかったため奥から三番目の席に座った。木でできたカウンター、明るすぎず、落ち着いたオレンジ色の照明と席に置かれた蝋燭の明かりでレトロな雰囲気だった。
地元にこんなバーがあったことを、今日初めて知った。駅から離れたこんな場所にあるバーを見つけることができる人は少ないだろう。街灯も少ない夜道を歩いていて、唯一光が灯っていたのがこの店だったため入ることができたが、昼間だったら絶対に見つけられなかっただろう。
グラスの氷が解けてカランと音が鳴る。グラスに残ったウイスキーを一口飲む。炭酸の刺激と苦みが口に広がり、軽く眩暈がした。普段、ウイスキーどころかアルコールすら飲まない自分にとっては、いくら炭酸水で割られているといっても一杯で酔ってしまいそうだ。
携帯の画面を開き着信履歴を見る。着信は一つもなかった。発信履歴は一人の名前で埋められていた。その名前をもう一度押し、発信する。多分今回も出ないだろうと思いながら。初めは、「出てくれ」と願いながらかけていたが、何度もかけているうちに作業のようになってしまった。出ないと分かっていてもかける。俺はきっと、誰かに止められるまでかけ続けるだろう。
2
二杯目はチャイナブルーを頼んだ。グレープフルーツのさっぱりした味が口に残っていた苦みを抑えてくれる。相変わらず着信はなく、携帯の画面は「発信中」のままだ。
「弟が帰ってこなくていいって言うんだよ」
スーツの男は少し酔っているのか、店主に嘆くように言った。
「『仕事忙しいだろうから』とか『僕のためにわざわざ帰らなくていいよ』って。俺があいつのために帰ってくるって思ってるらしくてさ。俺はあいつに会いたくて帰るのに、そう言っても信じてくれないんだよ」
「遊佐は胡散臭いからね。本心かどうかわからないんだよ」
店主は笑って言った。遊佐と呼ばれたスーツの男はそんな店主を見て「俺はいつでも素直で正直に生きてるのに」と口角を上げながら、拗ねた子供のような口調で言った。しかし、目は少し寂しそうだった。暗くてあまり見えなかったが、よく見ると男は親しみやすそうな顔をしていた。
こちらの視線に気付いたのか、スーツの男と目が合った。慌てて目を逸らそうとしたが、それも感じが悪いと思い「すみません」と小さく言って軽く頭を下げた。すると男は笑顔で「こちらこそ、騒いでしまってすみません」とはっきりとした口調で言った。
携帯の画面を見るとダイヤルの画面に戻っていた。もう一度、発信ボタンを押した。
3
「この店に来るのは初めてなんですか?」
先に声をかけてきたのはスーツの男だった。俺は「そうです」と答えた。思った以上に声が出なかったため、相手に聞こえているか不安だったが、ちゃんと聞こえていたようで「よく見つけましたね。こんなところにある店」と言った。
それから、軽くこの店の話をした。自分がどうやってこの店を見つけたか、もう少し目印になる物や看板を建てた方が良いんじゃないか、などと他愛のない会話が進んだ。その話を店主は小さく笑いながら聞いていた。スーツの男は見た目以上に話し方にも親しみやすさが溢れていた。少し高い声で落ち着いた口調と、コロコロと変わる表情は、誰もが好感を抱くのではないかと思った。
途中から店主も会話に混ざり、男のネクタイの話になった。男のネクタイは赤をベースに小さな柄が入っていた。遠くから見れば普通のネクタイなのだが、近くで見ればその柄は一匹のムカデだった。しかもとてもリアルで、柄だと分かっていても目をしかめてしまう。
「この人、いつも変な柄のネクタイをしてくるんです。この店は暗いからあまり見えないけど、明るいところでは見たくないですよね」
店主は呆れたように言う。自分もその言葉に深く頷く。男はまた拗ねた子どものような口調で「可愛いと思うんだけどなあ」と言った。その流れで二人が俺の服に目を向ける。自分も自分の服に目を落とす。慌てて言葉を発するより先に「お葬式だったんですか?」と店主が優しく聞いてくれた。
「すみません、こんな場所に喪服で来てしまって」
何を言われるかと身構えたが、二人とも不信感や嫌悪感、怒った様子もなかったため少し安心した。
「ここには色んな人が来ますし、気にしないでください。それに、この店は暗いのであまり見えないです」
店主は変わらず優しい笑顔で言った。
「お葬式の後こそ、こういう場所で飲みたいですよね」
男は空になったグラスを見つめながら言った。
「友人が、亡くなったんです」
酔っているのか、不思議と口が動いた。
携帯の画面がまたダイヤルに変わっている。発信ボタンを押す。
「中学校からの友人で、変わった奴だったんです。俺は学校も殆どいかずに問題ばかり起こして、友人は生徒会で副会長をしていたんです。中学校を卒業してから俺は就職したんですけど、友人は有名な公立高校に進学して、そのまま大学にも進学して。俺と正反対な人間だったんです」
画面の発信中の文字に視線を落とす。
「俺の親も変わってて、家庭訪問に来た担任の指を家の扉で挟んで、親指以外の指八本を折ったことがあったんです。その時は学校だけじゃなく、地域でもちょっとした騒ぎになってしまって。登校して教室に入ると、両手を包帯で巻いた担任とクラスメイトが全員俺の事を見てくるんです。冷たい目で、腫物を見るような目で。その時、その友人だけが笑ってくれたんです。担任の手を見て腹抱えて笑って、『お前の母ちゃん凄いな』って。一見聞いたら馬鹿にされてるようなんですけど、あいつは全然そんなことなくて。ただただ、担任の手が面白くて笑ってて、周りのクラスメイトも流石に引いてましたよ。あの場で笑ってたのはあいつだけで。その後、担任にめちゃくちゃ怒られてたんですけどね」
発信中の画面が切れて、ダイヤルの画面になる。
「それから、よく話すようになったんです。話すって言っても学校じゃなくて放課後や夜中に、公園やコンビニで会ってはしょうもない話をして。中学を卒業してからもそんな関係がずっと続いていました。あいつが大学生になって、引っ越すまで。引っ越してからはたまに電話する程度で、地元に帰って来た時は一緒に飯に行って。いつも会う時は元気そうでした。でも、先日首を吊って死んだんです」
暗くなった画面を開けて、再び発信ボタンを押す。
「そいつの弟が、家に行くと首吊っていて。遺書も何も残さずに。部屋を調べるとうつ病の薬や睡眠薬、安定剤が大量に見つかって。家族も何も知らなかったらしいです。家族も俺も、なんで自分から死んだのか、誰も分からなかった。
葬式の日も、皆何も分からずに式を行っていました。弟なんて、誰の式を行っているのかすら分かっていない様子でした。
弟とは何度か会ったことがあって、会う時はいつもあいつの後ろに隠れていました。その時、確か弟はまだ小学生で、俺の事を怖がっていて。兄の事が本当に好きなんだろうなと、初めて会った俺でもわかるくらい、兄を慕っていました。式で再会したときは高校生になっていて、でも雰囲気は変わらず、俺が声をかけても少し怯えた様子で」
式での弟の姿を思い出す。つい五時間ほど前の記憶なのに、もっと遠い記憶に感じる。
「でも、俺が会場を出た時に弟が来てくれたんです。目も合わせずに『兄が死んだ理由を知りませんか』って、聞いてきて。そんなの俺が聞きたいって言おうとした時に、たまたま聞こえてきたんです。男の声で『あいつ、死んだな』って。それも小さく笑いながら。弟と俺は、そいつらの話を最後まで聞きました。話によると、笑っていた男が、あいつを高校生の時にいじめていたらしいんです。それがきっかけで気を病んでいたんだと分かりました。高校から離れた大学に行っても、きっとその時のトラウマで苦しんでいたんでしょう。でも、俺は全く気付かなかった。今思えば、あいつは高校でも大学でも、一切学生生活の話をしなかった。俺が一言でも、声をかけていれば」
ここまで話して、初めてあいつの死を実感した。後悔した。あいつは死んだのか。死んだんだ。あいつが死んで、やけに冷静な自分が嫌だった。それは冷静だったのではない。実感が無かっただけだ。その証拠に、今になって強く胸を締め付けられる。
「すみません、こんな話をしてしまって」
落ち着きを取り戻すためにも、口を動かした。グラスに残っているチャイナブルーを飲んでも味がしない。口の中は苦みが残ったままだ。携帯の画面は、またダイヤルに戻っている。直ぐに発信ボタンを押す。
「大丈夫ですよ。話すと気持ちの整理もできますし」
男は優しく言った。男はずっと自分の話を聞いていてくれたようで、体をこちらに向けていた。店主も真剣にこちらを見ている。その視線があまりにも優しくて目頭が熱くなる。しかし、こんなところで泣いていてはいけない。自分は、ここにいてはいけない。
「そろそろ出ますね。チェック、お願いします」
そう言ってお金を払い、席を立った。
「弟さんに会ってあげてくださいね。きっと、弟さんも寂しがっていますから」
男は小さく笑って「そうするよ」と言った。
店主はわざわざ店の前まで送ってくれた。
「美味しかったです。ありがとうございました。それと、すみません」
そう言うと店主は「大丈夫です。この店は暗いから」と言って笑った。
4
店を出て時間を見ると三時を少し回っていた。一時間ほどあの店にいたことになる。相変わらず、電話に出る様子はなく発信履歴だけが増えていく。
あいつの弟に、ちゃんと伝えなければ。殺したのはお前じゃない。お前が逃げた時、まだ意識はあった。それにとどめを刺したのは自分だと伝えなければ。
あの話を聞いた後、俺と弟は二人でいじめていた男の家までついて行った。俺は何も考えていなかった。それがいけなかったのだ。男が家に着いた瞬間、弟がポケットから大きめのカッターナイフで男の腹部を刺したのだ。弟は直ぐにパニックになり、どこか走って行ってしまった。残された自分は男を助けようかとも思った。いや、思っていなかったかもしれない。男は自分に助けを求めていた。しかし自分は、カッターを抜いて男の首に突き刺した。
それからの事はあまり覚えていない。とにかく、弟に会わなければ、その一心で歩き続けていた。直ぐに「自分が殺した」と言って自首しようと思った。そうすると、あいつは何の罪にも問われない。全部自分一人の犯行だと言いたかった。でも、出来なかった。
弟は男を刺した時にポケットからカッターナイフを取り出した。そのカッター、本当は自分が死ぬために持っていたんじゃないのか、兄を追って死ぬために、いつでも死ねるようにずっと持っていたんじゃないのか。もし、俺の考えが合っているなら捕まるわけにはいかなかった。電話を掛けながら、隠れながら歩き続けた。警察官が前から歩いてきたため、咄嗟に入った店がさっきのバーだった。
街灯に照らされて服に着いた血が浮かび上がる。スーツは黒であまり目立たないが、シャツに飛んだ血ははっきりと見える。その血に気付いたのは、男のネクタイの話をしている時だ。それまで全く気付かなかった。店主は「この店は暗いから」と言っていたが、きっと初めから見えていたんだろう。そして男も、気付いていて俺の話を聞いてくれていたんだろう。あの二人に感謝した。
これから先の事は何も考えられない。ただ、ちゃんとお前と話がしたい。自首するにしても、逃げるにしても、お前とは話がしたいんだ。今はお互い、話す相手が必要なんじゃないかな。
電話に出てくれることを強く願いながら、発信ボタンを押した。




