47話 薄れゆく記憶の中のキミは…
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「あー。もう!あとどれくらいなのよ!」
翌日、休憩に寄ったサービスエリア。買った缶コーヒーを理子に手渡す。
「あとまだ六時間はあるぞ。運転大丈夫か?」
理子は冷たい缶コーヒーを一息に煽って大きなため息を吐く。
「大丈夫なわけないじゃない。運転代わってよ!」
地元の高速に乗って早二時間。普段ペーパードライバーの理子にはこの道程はかなりきついらしい。
「無理ですよ。今の俺は免許も持ってないんですから。」
俺の無慈悲な回答に理子は肩を落とす。
「だいたいこの大きな車疲れるのよ!軽自動車が良かったのに!」
理子はさらに地団駄を踏む。車を持ってない理子は今回美海を迎えに行くために源先生から八人乗りのワンボックスカーを借りたのだ。
「高速を軽自動車じゃ余計に疲れるぞ。それに…」
俺はみんなに視線を向ける。
真一、優子、琴美。みんなそれぞれ食べ物や飲み物を抱えている。すみれさんは直接迎えには来ず、俺たちを信じて待つそうだ。
「わかってるわよ。みんな乗れる車がこれしかなかったのよね。それにしてもみんな…旅行気分?」
「遊びなんかじゃないです。美海の事迎えに行くんです。」
理子の呆れた声に優子が反論する。
「はいはい。わかってるわよ。」
理子はやさぐれながら車に乗り込む。
みんなが車に乗り込んだのを確認すると、理子は車を発進させる。
地元から美海のいるであろう△△県までは車で約八時間。
俺たちが以前再開した事すらも、奇跡に近いと言える。
それからも理子は車を走らせる。しばらくすると、ある異変に気が付く。
頭の中に徐々に、霧のようなものがかかってきていることに気付く。
それはゆっくりとゆっくりと。長い道のりの中で薄められ、気付かぬくらいの速度で。
そしてそのことに俺が気付いたのは道程の六割ほどを行ったころだった。
「□□町だ。理子。そこに行ってくれ。」
「なに?もう近いの?」
俺の言葉に運転中の理子は言葉を弾ませる。
「いや、まだ半分を超えたあたりだ。」
「もう期待させないでよ。詳しい場所は近くなってから教えてよ。」
理子はガックリと肩を落としハンドルを握りなおす。
「いや、聞いてくれ。思い出せなくなって来てるんだ。」
俺の言葉に慌てた理子は最寄りのサービスエリアに車を止める。彼女も休憩がしたかったのだろう。
「ちょっと、記憶がなくなってきてるってどういうこと?」
車を降りた理子は俺に詰め寄る。
「思い出せないんだ。以前住んでいた住所。美海の住んでいた住所。働いていた会社。この辺りが全部思い出せない。□□町だったと思うんだ。」
みんなの顔が青ざめる。
「思うって…どうしてもっと早く言わないのよ。町一つ虱潰しに探す気なの?」
理子は俺の肩を揺さぶる。
「気付いたのが、ついさっきだったんだ。まるで…」
その先の言葉を言う事に躊躇いを感じて口ごもる。
「まるで、美海に会うことをあなたが拒んでいるみたいね。」
その続きの言葉を琴美が口にする。
俺は歯がゆさから目を逸らす。
「どうして…」
優子が不安そうにこちらに視線を向ける。
「わからない。」
俺たちは少し休憩を挟んだのち、再び出発する。
残りの道中、俺と理子は言葉をまるで発せず、琴美、優子、真一の三人は不安を拭うようによく話していた。普段静かな真一でさえも、この時ばかりは饒舌に口を開いた。
彼女たちの話題といえば主に天文部でのこれまでの思い出話が主だったが、その随所にすでに思い出せないものが出てきている。まるで、夢の中のことを思い出しているような気分だった。
道程の八割も過ぎたころにはもう町名どころか、一体俺はどこに向かっているのかですら思い出せないようになってきていた。
高速を降りて□□町に着き、理子は車を止める。辺りはまだ明るいが、時刻はすでに夕刻を過ぎている。じきに暗闇が辺りを染めていく事となる。
「誠、□□町に着いたけど、どうするの?」
ええっと、このあとはどうすればいいんだったかな?
なにをどうするべきなのか、わからず言い淀む。
「理子先生は疲れてるだろうし、泊まるところも必要だから、真一と宿の手配。優子とアタシは誠と、美海を探すのよ。」
俺の代わりに琴美がハキハキと指揮を執る。
思わず関心の言葉が出る。
「琴美、お前凄いな。」
「しっかりしてよ!これくらいの事、誠なら当然のようにやってたことよ!美海を探すんでしょ!」
そうだ。美海を探すんだったな。美海、どんな顔をしてたかな。
記憶の中をいくらたどっても、すでに美海の顔も思い出せない。
その事を口に出すこともできず、俺たちは二手に分かれる。
俺たちは美海の捜索。とは言っても、見覚えすらない町の中で、人を一人探すことがどれほど困難な事か。
俺たちは町の少し栄えている場所から、美海を探すことにした。といっても、一軒一軒回るなんてことはなく、俺が何か思い出さないか、それが頼りだった。
日はとっぷりと暮れ、辺りはすでに暗闇に覆われて来ていた。
「ねぇ、誠、思い出せないのって、時間が関係してるのかな?」
優子が思いついたように口を開く。
「いや、どうだろう。こっちに近付くごとにだんだんって感じかな。」
「それってさ、誠が美海に近付くごとに思い出せなくなってるんじゃない?」
「じゃ、誠が何かを思い出すんじゃなくて、忘れていく方に行けば。」
「美海に会える!」
「美海に会える!」
二人は声を揃えて言う。
思い立ったら吉日と、二人は少し離れた場所で、理子に携帯で連絡を取る。
俺は美海のことを思う。
彼女は、どんな顔だったのか。背は高いのか、低いのか。声は、髪形は。
記憶の中の彼女は白い霧の向こうで、その輪郭ですら思いだせなくなってきていた。
彼女は俺にどんな風に笑いかけてくれたのか。
俺は彼女とどう接していたのか。
俺は彼女のどこにそこまで惹かれたのか。
どこに。
そうだ。美海の、彼女の瞳は。
黒く澄み切った、不思議な光の彼女の瞳。
あの日、部室で見た。
一緒に夜空を見上げた。
星空を瞳に映すと蒼く不思議な輝きを放つ彼女の瞳…
美海!!
いてもたってもいられず俺は走り出した。
自分の記憶の霧が濃くなる方へ。
自分がどこへ向かっているのか。どこを走っているのか、それすらもわからない。
彼女の瞳を、もう一度。その思いだけで俺は走った。
やがて、町の光は遠ざかり、人の気配の少ない山道に入る。
それでも俺は走り続ける。
ある程度、夢中に走って、気付く。優子、琴美とはぐれてしまっていた。
「そうか、電話してるときに走ってきちゃったから。」
そう呟き、再び前を向いて道を進む。やがて、街灯もまばらで、家の灯りも少ない場所に出る。
俺はさらに走った。頭の霧はさらに濃くなり、やがて黒いもやとなり、俺を包む。俺は前も後ろもわからず、ただただ歩を進めた。
何も見えないまま走る俺は道のちょっとした段差につまずき派手に転ぶ。
俺の胸ポケットから美海に貰ったキーホルダーが零れ、もやの中へ消えていく。
もう、どこへ進めばいいのかもわからない。
もう、どうしたらいいのかもわからない。
もう、何を目指していたのも…
ダメだ!!ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ!
また逃げてるぞ。俺!しっかりしろ!
俺はゆっくりと立ち上がり、痛む足を引きずりながら前へ前へ進む。もはや、自分の足が地面に着いているのかですら知覚できないほど黒いもやは、俺を包む。
それでも俺は前へ。
少しでも前へ。
美海の近くへ。
俺が本当に欲しかったもの。
俺が本当に望んだもの。
あれ?俺はなにが欲しかったんだ?
俺は何を望んだ?
歩幅は徐々に小さくなり、足を止めそうになったその時、黒いもやの中、誰かが俺に近付いていることに気付いた。




