26話 一度の失敗は人生においてどれほどの重みを持つにいたるのか その6
翌日の放課後、アタシは今まで通り、天文部の部室へやってきた。
最近はこの部室のドアを開けるのが非常に重く感じる。でも、アタシは今日もドアを開ける。
「お疲れ様―。あれ、優子だけ?誠と美海は?」
部室にいたのは優子だけだった。
「誠は今日、学校来てないよ。何かあったのかな?琴美は何も聞いてないの?」
誠とは昨日保健室で話して以来会っていないし、連絡も特に取ってはいなかった。
「アタシも、何も聞いてないんだけど。」
誠が何も言わずに学校を休むのはなかなかない事だった。
「最近さ、みんな、なんかバラバラだよね。ちゃんとした部活も出来てない…」
優子の言葉が胸に刺さる。その原因の一端はアタシにあるのだ。思えば優子の事も蔑ろにしてしまっていたのかもしれない。
「優子、その、ごめん。アタシが変な事に首を突っ込んだせいで。」
優子は首を左右に振る。
「琴美のせいじゃないよ。でも、もう一人で抱え込まないでね。琴美の事、親友だと思ってるから。寂しいよ。」
それは優子の心からの言葉。アタシは馬鹿だ。なんでも相談できる親友がこんなに近くに居るのに、一人で抱え込んで、余計に話を拗れさせる。そういえば、アタシが部屋から出れなくなったのも、そんなアタシの拗れた性格が原因なのだ。
「本当に、ごめん。ありがとう。」
優子は静かに頷く。きっと聞きたいこともいっぱいあるのだろう。それをぐっと我慢しているのだろう。
部室の扉が静かに開かれる。霧崎先輩だ。
「こんにちはー。あれ?二人だけなの?」
霧崎先輩は痛いところを突いてくる。
「誠は休みだそうです。美海はまだ来てないです。」
私の返答に霧崎先輩はキョトンと首を傾げる。
「結城君、休みなんだー。珍しいね。で、あれからどうなってるの?昨日聞こうかと思ったんだけど、本当は今日結城君来てたら色々聞きたかったのになー。」
霧崎先輩のこういう臆面ない性格は正直羨ましい。
「私ね、この部活の何でも言い合える雰囲気みたいなの好きなんだー。だから、早くみんなで一緒に部活出来るといいね。」
本当に、改めてそう思う。それはアタシだけでなく、優子も同じ気持ちのようで、ほんのり目元に笑みを浮かべ、静かに頷いている。
「こんにちは。遅れてごめんなさい。あれ、みんな、どうしたの?」
部室に入ってきた美海は私たちの間に流れる微妙な雰囲気を敏感に感じ取る。。
「いや、ほら、誠今日休みだし、どうしたのかなって。」
こんな取り繕った事しか言えない自分が嫌になる。
「誠なら、今日大樹君?に仕事紹介して、それから仕事探すために色々走り回ってるみたいだよ。」
美海はあっけらかんと言う。
「そうそう、美海ちゃん、どうなってるの?結城君から聞いてるー?」
「みんなにはまだ話してなかったもんね。あのね…」
美海はなんのためらいもなく、みんなに告げる。由佳の妊娠の事も。そして、危険な状態で病院に運ばれたことも。
優子も霧崎先輩も驚きの表情を隠せずにいた。
アタシも驚いた。こんなセンシティブな話題、どうしてこうも顔色一つ変えずに言えるのか。
「ちょっと、美海、いいの?こんな簡単に言っちゃって。」
アタシは不安になり、美海の袖口を引っ張る。
「どうして私たちが遠慮しなくちゃいけないの?もともと向こうが助けを求めてきたんだし、天文部のみんなには知る権利があるよ。」
アタシは美海の瞳を見て確信した。アタシたちは事あるごとに誠を頼ってきた。誠は天文部の為ならどんな大変な事でもやり遂げてくれるという安心感があった。
しかし、違うと直感した。きっと美海が。美海こそがこの天文部の為なら何でもできてしまう人なのだ。その為ならば最愛の人に労を課すことも微塵も躊躇わない。
彼女のその澄み切った瞳の奥に宿る決意の光は刹那も揺らぐことはない。
部室に流れる沈黙の中、意外な人物が部室の扉を開ける。
「お疲れさま。今日は休んでごめん。」
誠だった。両手に買い物袋を抱え、それを部室の机の上に置く。
「誠、どうだった?あいつ。」
アタシは優子や霧崎先輩を差し置いて真っ先に誠に状況を聞く。そうだ。今の状況が一番気になっていたのは他ならぬアタシなのだ。
「大樹か?あいつ、今日は日雇いの仕事に行ってるよ。明日も行ってもらう。」
そう言いながら誠は机の上に置いた買い物袋をガサガサと漁り始める。その様子を優子も霧崎先輩も興味津々に覗き込む。
誠が取り出したのは履歴書。それに運転免許の教本。職業訓練校の教本だ。
「な、なんか、すごいね。」
霧崎先輩はちょっと引いている。
「もう少ししたら大樹がここに来るから。」
誠は買ってきたものを机に並べながら言う。
「私、どんな顔したらいいか、わかんないよ。」
優子のいう事は尤もだ。アタシでさえも未だにどう接していいものか、わからない。
「みんな、いろいろ思うことはあると思うけど、今だけは押さえてやってくれ。あいつらのしたことは、許されることじゃないとは思う。でも、これから生まれてくる命には何の罪もないんだ。なら俺は、少しでも後悔の残らないように応援したいと思ってる。」
誠の言葉に霧崎先輩は拍手を送る。確かに霧崎先輩はあいつらとの直接的な因縁はない。しかし、誠の真摯な想いはアタシにも、そしてきっと優子にも、少なからず響くものがあった。
「優子、あいつらの事はアタシも未だに許せないけどさ。誠の事は応援してあげようよ。」
優子は小さく頷いた。
しばらくして大樹が部室に現れた。アタシたちは面食らってしまった。
部室に入るなり、大樹はアタシたちに向かい、突然土下座を始めたのだ。その服装は泥と埃で薄汚れ、今日卸したてであろう作業服はすでにヨレヨレになっている。
アタシも優子も何も言えず立ち尽くしてしまう。
「おいやめろ。そういうことさせたくて呼んだんじゃない。」
「でも、俺、ここのみんなにすごい酷いことして、こうでもしないと俺の気持ちが…」
「そんなことして満足するのはあなただけよ。やめて頂戴。それなら心の底から思う存分罵倒させてくれた方が幾分マシよ。」
美海の冷たい声音が部室に響く。
「あなたは、あなたの犯した罪を、ずっと心に刻んで生きていきなさい。同じような過ちを犯さないためにも。今は他にするべきことがあるでしょう。ほら、立って。」
静まり返る部室。その中、大樹は力なくよろよろと立ち上がる。
こんな美海の一面は初めて見た。この事態に驚いたのはアタシだけではない。優子も、霧崎先輩も、そして、誠でさえも口を開けたまま固まっている。
誠は空気を変えるかのように短く咳ばらいをし、大樹に先ほど自身の並べたものを一つづつ説明していく。この手際の良さは流石元サラリーマンと言ったところだろうか。
「これ、履歴書ね。書き方わからなかったり、書くことわからなかったらその都度教えるから。適当に書かない事。あと、字を間違えたら最初から書き直し。字も丁寧に書いて。」
誠は履歴書用紙を広げ項目についても一つずつ解説していく。傍で聞いてるアタシたちも思わずその解説に聞き入ってしまう。
「なんでこれこんな細かく書かなきゃいけないんスかね。金が欲しいじゃダメなんスか?」
「お前、中卒の履歴書もまともに書けない奴と仕事したいか?」
誠はこめかみに手を当てる。確かに、大樹の言っていることはあまりにも幼稚だ。
「いや、そうじゃなくて、こんなに細かく書いてなくても、現場で仕事できる方が偉いって言うか…ほら、今日も結構褒められたんスよ。筋が良いって。」
大樹は自慢げに胸を張って言う。
「お前が一生日雇いでやってくならいいよ。
その褒めた奴らは本気で言ってるわけじゃない。初日からお前に逃げられたら面倒臭いから適当に褒めてるだけだぞ。
それに、ちゃんと面接するようなまともな会社でお前どう仕事できるとこアピールするんだ。そもそも、単純労働以外のまともな仕事、ろくにできないだろ。」
誠は矢継ぎ早に大樹を責め立てる。
「じゃ、なんで今、日雇い行く必要あるんスか。面接とかに集中した方がいいと思うんスけど。」
「これだ。」
誠は運転免許の教本を大樹に見せる。
「あー、教習所代ですか。確かに免許はあった方が良いですもんね。」
大樹は手を打って納得するが、誠の思惑とは違ったらしい。
「なんで定職にもついてない、学業もないお前が教習所行く必要あるんだよ。飛び入りで行くんだよ。だから、その為の教科書だよ。お前が自分で勉強するんだ。日雇いの仕事が終わった後でな。何度落ちてもいいけど、金掛かるから数回で取るつもりでな。」
大樹は顎が外れそうなほど口をあんぐりと空け抗議の視線を誠に向けるが、誠はその視線を完全に無視する。
「こっちは何なんスか。」
大樹は置いてあるもう一つの冊子を見ながら言う。
「それは講習だな。フォークリフトとか、玉掛なんかは持ってて損はない。講習も三日とか四日の短期だ。他は汎用性もあまりないし、今はまだいいだろ。」
「これ、かなりハードじゃないスか?」
確かに、誠の言うメニューをこなそうとすると、周の7日間をフルに使う必要がある。それも朝から夜にかけて。アタシの目から見ても相当ハードな内容だ。
「これが、お前が選んだ道なんだよ。甘えたことはもう言うなよ。大丈夫。出来るから。」
誠は事もなく言ってのける。
「でも、これじゃ、自由時間とか、ほら、俺の意思も何もないし…」
大樹は言い訳がましく食って掛かる。
「由佳にもねえよ。そんなもん。目的を忘れるなよ。」
誠の目は一切笑っていない。本気でコイツにこれだけの事をさせる気なんだ。
結局、大樹は誠に何も言い返せないまま、誠の用意した諸々を抱え、肩を落として帰っていった。
「すごい迫力だったね。結城君。」
霧崎先輩が驚いた口調で呟く。アタシも驚いた。
「あいつ、まだちょっと現実が見えてないというか、考えが甘いんですよ。だから、見てるとムカついてきちゃって…」
優子がアタシに耳打ちする。
「あの人って、三年生だった人だよね。誠、自分が高校生に戻ってるの忘れてない?」
優子の指摘はアタシも前々から思っていた。誠は感極まると急に大人に変身するようで、上級生も教師も関係なくなるようだ。
「そういえば並木先生にも結構キツい言い方する時あるよ。」
アタシたちがヒソヒソ話していると美海が心配そうに誠の傍に行く。
「彼、投げ出さずに出来るかな?」
「出来なくてもやってもらうしかないだろ。普通はゆっくりこなしていく事だけど、なんせ時間もないし。」
「そうだね、しばらく様子見ていくしかないね。」
そういう美海と誠は未だ浮かない顔をしているが、何を案じているのか、この時のアタシには知る由もなかった。