ほほ笑む女の絵(三十と一夜の短篇第49回)
昨今の新型コロナウイルスの感染・パンデミックを思わせる描写があります。苦手な方はそっ閉じしてください。
私の部屋の片隅にそれはある。
赤いスカーフを首に巻いた、ほほ笑む女の絵。
「おまえの怖いものは、なに?」
絵の女の人がやさしい声音で私に問う。
……幻聴だ。絵がしゃべるなんて、もうそこまで私の精神は疲弊してしまったのか。そう考えつつも、その柔らかな表情に魅入り、私はぽろりと本音が漏れた。
「周りの目が怖い」
会社に行きたくない。たいして仕事ができず、美人でも、まして社交性もない私。みんなからの評価が怖くて、どう思われているか想像すると足がすくむ。今だってもうすぐ家を出る時間なのに動けずにいるのだけど、休んだら休んだで周囲の反応が怖い。……考えすぎだと家族は言うけれど。
「ええ、怖いものね。でももう大丈夫よ」
絵の女は優しくそう言う。
コンコン、と硬質なノック音が聞こえた。次いで「急がないと遅刻するよ」と母の声。あわてて時計の針を見ると、家を出る時間を三分過ぎていた。忘れものがないようにもう一度確認して、家を出る。
足が軽い。気持ちが軽い。なぜだろう。
その日はいつもより平穏な気持ちで仕事に励んだ。
不思議と周りの視線が気にならなかった。
◇
私の部屋にあるあの絵。買った覚えはない。いつのまにか壁にかけてあって、私はそれを不思議に思うことなく、当たり前のように受け入れていた。部屋の雰囲気とはだいぶ趣きが違うけれど、問題はない。
会社に行くのが楽になってひと月が過ぎた。周囲の視線はもう怖くない。例え他人が私を悪く思っていたって、それが私に物理的なダメージを与えてくるわけではないからだ。ビクビクしている方がよっぽど周囲の不安を煽り、距離を置かれる。うつむきがちだった顔を前を向け、丸めていた背をぴしりと正す。今の私は職場の人とそれなりに仲良くできていた。
「ねえ、小野里さん。よかったら今度、二人で飲みに行かない?」
終業間近の夕方。窓からさす赤い陽光を背に受け、同僚の一人が私に向き合う。びくりと肩を震えた。相手は最近よく言葉を交わすようになった男性だった。
「連絡先交換しようよ」
にこりと笑った彼。私は表情がこわ張り、手に汗をかいていた。今までなんとも思っていなかったのに急に目の前の男が怖くなった。どうしてだろう、別の生き物に見える。
「えっと、」
答えに詰まっていると、別の同僚が間に入ってくれた。平静を装ったけれど、ぎこちなさは隠せてない気がする。そして終業を告げるチャイムがなると、私は逃げるようにその場を去り、家へと帰った。
「なにが怖いの?」
絵の女はまた語りかける。赤いスカーフが目を引き、そのやさしそうな笑顔にほっと息をつく。丸みをおびた頬に形のよい薄い唇。絵の女の人はとてもきれいだ。
なに、と聞かれてもその形をうまく掴むことができない。私はなにが怖いんだろう。ゆっくりと息を吐いて心を落ち着け、絡みあった思考を一本ずつ解いていった。
今まで異性と親しくしたことがなくて、どう反応していいかわからない。男性を恋愛対象としてみることに戸惑いを感じる。
それはなぜ?
ゆっくりと時間をかけて答えを出した。
「……知らないものが、怖い」
臆病な私は、小さな頃からあらゆるものが恐怖の対象だった。知らないものと遭遇するのもひどく怖い。
絵の女が穏やかですに笑う。
真っ黒の目をこちらに向けて。
「そうね。でも、もう大丈夫よ」
女がそう言うと、私は大きな安心感に包まれた。
未知に対しての恐怖は、もうなかった。
あの絵はいつからあるんだっけ、とふと疑問に思ったけれども、その考えはすぐに霧散していった。買った覚えも飾った覚えもないけれど、ごく自然に生活の中に溶け込んでいたからだ。
◇
私はあの同僚とデートを重ね、交際をするようになった。新しいことに挑戦することが楽しくて、彼と一緒にあちこち出かけたり、イベントに参加してみた。そうするうちに友だちも増えていった。
「お化粧かえた? かわいいね」
「今日の洋服すてきよ」
新しい自分になるのも怖くない。おしゃれをするのが楽しくなって、褒められて、毎日がキラキラと輝いていた。交友関係は少しずつ広くなって、休日はたいていどこかに出かけていた。
引きこもりがちだった私の変化に家族はたいそう心配していたけれど、危ないことはしていないし、大丈夫だよと言って玄関のドアを元気いっぱいに開ける。私は次々と刺激をくれる外の世界が大好きだった。
……ところが、ある時から世界が変わった。
聞き慣れない名のウイルスが徐々に人々の間で広まっていったのだ。はじめてそのニュースを聞いたのが半年前。それも外国での話だった。そこから静かに、そしてあっという間に各地で猛威をふるいはじめたそのウイルス。気温が変われば、季節が変われば。そんな希望をことごとく打ちやぶり、一向に沈静化する気配がないまま世界中で感染者が増えた。死者の数は早々に万を超え、その中には私もよく知っている有名人もいた。
私たちの暮らす街でも、不要不急の外出は極力控えろとのお達しが来ている。人々の間ではピリピリとした雰囲気がまとい、閉塞感から空気が淀んでいく。
感染。感染。感染。
息がつまりそうだ。これからどうなるんだろう。
でも、怖くはない。
『もう大丈夫よ』
絵の女が、ウイルスへの怯えを拭いとってくれたから。
必死に引き止める家族に、笑顔で「行ってきます」と言い、私は今日も街へ繰り出した。他人にどう思われようが怖くない。予測不可能な未来への不安もない。なるようにしかならないんだから。
◇
最初に倒れたのは誰だったか、だんだんと私の周りから人がいなくなった。
まず彼が高熱を出した。ウイルス検査の結果は陽性で、それを知ると他の友人たちも次々と体調不良を訴えた。私も検査を受けて、結果が出るまでの間にいろいろと質問をされた。誰といた、どこにいた、なにをしていた。
私は陰性だったけれど、自宅で静養するようにと強く言われた。久しぶりに長い時間を家で過ごしていると、スマホのメッセージがひっきりなしに告げてくる。誰が感染した、誰が入院した。まるで私が悪いと言わんばかりだ。鎖のように連なった感染ルートは、家族や友人、まったく関係のない通りすがりの人までをも染めていく。
そうするうちに母が倒れた。その二日後には父も。今までどこか他人事だったのに、つらい現実に頭を殴られてようやく正気に戻った気がした。
防護服の着た人たちが、街を洗う。一人きりになった家の中で、私は膝を抱えて小さくなっていた。しばらく自室には入っていなかった。あの絵を見たくなかったからだ。
ニュースで多くの人が亡くなったと言われてもピンとこなかった。でもそれが身内に降りかかると一気に心臓が冷える。今まで一緒に暮らしてきたのに、近くにいたのに、もう会えないの? 笑ってくれないの? 怒ってくれないの? 不安と孤独、そして後悔が私を苛む。
私のせいなんだろうか。だけど、それなら私が倒れればよかった。高熱にもだえ、息苦しさにあえげば自業自得だと納得できる。どうして私は元気なの。
じゃあ責任とりなよ。命で償えば、みんな許してくれるよ。――頭の中のなにかがささやく。
……いやだ、死ぬのは怖いよ。きっと痛いし、苦しい。それはとても怖い。
「なにが怖いの? 教えてちょうだいな」
甘い声が私を撫でる。
やめて、今は聞きたくない。言いたくない。
「死ぬって、怖いよ。……怖い」
なぜか私の口は開き、素直に言葉をつむいだ。ふと視線を移せば、リビングの壁にあの赤いスカーフの絵があって、こちらに笑いかけている。うすく弧を描いた口元。どうしてここにあるの。あってもいいじゃん、素敵な絵だよ。ちがう、私の部屋にあった。いつも見えるところに置いておかなきゃ。いやだ、怖いよ、あの絵は怖い!
「そうね、怖いものね」
いつの間にか私はキッチンに立っていて、手には包丁を握りしめていた。ひっ、と声が漏れた気がする。違うかもしれない。だって私の顔はなぜか笑っているから。手に視線を落とす。この黒い柄の包丁は母がよく肉や魚を切っていたものだ。切れ味はいい。
「もう、大丈夫よ」
女が笑う。真っ黒なその目で私を見据え、笑う。
包丁を持つ手が迷いなく動き、私の喉を裂く。あたたかい血しぶきが肌を染めるその向こうに、赤いスカーフの絵が見える。見間違いかと思うほどに、その笑みは醜く、歪だった。
お題「怪」