笑える話じゃあないですね。
皆さまこんにちは、こんばんは、はたまたおはようございます。
またまた開いていただき、感謝感激、私はとても嬉しく思っています。
嘘くさいって?いえいえ、そんな。本当に思っていることですよ。ええ、本当ですとも。
さて、早速次の不幸をお話しさせてもらいましょう。
次の不幸は、私が覚えている一番古い記憶です。
3歳の出来事です。
この話は、私に起こった出来事ではなく、私の親戚が一番不幸だった出来事です。
不快なお話かもしれません。
あまり声を大にしてはいえないお話です。
笑える話ではないでしょう。
これは、私の従兄が、わずか小学1年生で亡くなった話なんです。
従兄と遊んだ記憶は、正直うっすらとしかなくて、どんな遊びをしたのかは、アルバムを見て知りました。
父の実家の駐車スペース、そこで小さなプールを広げて、私たち兄妹と、従兄が水遊びしている写真です。
きっと楽しかったんです。その従兄が好きでした。
私が死という概念を知るには、まだ早すぎて、従兄の死を受け入れるには、意味すら分からない歳でした。
そのときの出来事を、今となっては、詳しいことすら、聞きたいとも思えません。
親戚の古傷を抉ろうなんて、そんなこと、したくもありませんよ。
私の記憶にあるのは、両親がひどく悲しい顔をしていたこと。真っ黒な洋服を着て、ピカピカの黒い靴を履いて、何もわからぬまま、真っ白な花で目の前が敷き詰められ、その中心に従兄の大きな写真を眺めていたのです。
交通事故でした。道路に飛び出して、トラックに、轢かれたそうです。
私はただ、足もつかない椅子に座り、ぼんやり従兄の笑顔の写真を眺めて足をプラプラしていると、隣に見知らぬおじさんが座りました。どんな顔かは覚えていません。
ただ、私の母よりも父よりも、辛そうな顔をして、私に話し出したのです。
「自分が轢いてしまった」、と。
その言葉の意味がわからない私は、ただその人の話を頷いて聞いてました。
多分、色々質問もしたかもしれません。
会話の記憶は全くありませんが、きっと、酷な質問もしたでしょう。
今思えば、あのおじさんの行為は、意味のわからぬ子供に聞いてもらうことでできる、懺悔だったのでしょう。
意味のわかる人には、聞いてもらえない言葉の数々だったのでしょう。
きっと、伯母さんや伯父さん、お爺ちゃんやお婆ちゃん、私の両親、きっとその人の配偶者にだってできない懺悔だったのでしょう。
死という概念がわからない私にしかできない、話をしたのでしょう。
私は両親にそのおじさんのことを話しました。
意味もわからずに、こんなことがあったと、ただ自分の出来事を語るだけのつもりでした。
その時の記憶を覚えてはいませんが、小学生になってから、同じことを話しました。
両親は「そんなわけない」と否定していた気がします。
これが、私の一番古い記憶、ある意味では一つ目の不幸です。
笑い話ではありません。
これにまつわる記憶も、これ以上はありません。
ですが、お盆になると、必ず従兄の仏壇へ手を合わせるのです。小さい頃は、通例として。
そして、高校に上がってから、手を合わせるたび、思うのです。
今年は、こんなことがあったよ、と。
あなたの分まで、私たちは長生きしなきゃいけないね、と。
次の投稿はきっと笑える話です。
私の実家は雪国です。雪国で起こったちょっと不幸な出来事を、色々書いていきたいと思います。
それでは皆さまさようなら。
次も、読んでやってください。