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2.李泥寿の帰還

 部屋の中には男がいた。明日早朝、魔王退治のために細亜細帝国を発つ泥寿は、この男の助けを借りて準備をする。なにをするのかは知らないが、とにかく必要なことなのだ。


「やあ。来たか、泥寿」


 男は片眼鏡の向こうで目を細め、袁恕(えんど)と名乗った。

 袁恕は鼠色の絹服の長い裾をひらめかせて立ち上がった。元は何色だったかもわからない服を着た泥寿は、袁恕の動きを警戒していつでも飛びかかれるように剥き出しの膝を軽く曲げた。

 袁恕は泥寿の態度を無礼だと咎めることもなく、むしろ安心させようとするかのように、ゆるりと両手を顔の横に上げた。


「そう緊張しなくていい。私は腕っぷしも強くないし、武器も持っていない。ほら」


 袁恕の両手がくるくると回って表と裏をくまなく観察できたが、泥寿は気を緩めなかった。袁恕が今日来ることは知っていたし、彼が味方だということは知っている。しかし毒舎における常識によれば信頼していい相手などこの世には存在しないのだ。


「まあいいさ、やることは変わらない。行こうか」


 袁恕の先導に従って泥寿は毒舎を出た。そして生まれて初めて敷地から出た。


 塀の外には車が止まっていた。つやつやと光る毛の茶色い馬が二頭繋がっている。

 静かな黒い瞳、太い首、温かな体温を持つ馬は、毒舎で生まれ育った泥寿が見た中で最も美しい生き物だったが、曳かれる車は毒舎の壁と同じような、灰色に乾燥して表面の剥けた板で出来ていた。


 袁恕が先に乗り込み、泥寿もその後に続いた。馬車がゆっくりと動き出した。

 木製の車輪は道に散らばる小石の一つ一つがどんなに固くて尖っているか、泥寿の尻に正確に教えた。


「泥寿、十五年間よく頑張ったね」


 蹄の音を背景に袁恕が言った。


「まだ十五年じゃねえ。十四年と十一ヶ月と三百六十四日だ」

「まあ、まあ。忍耐を過小評価されるよりは、過大評価されるほうがいいだろう」


 袁恕の言うことはもっともで、ただ揚げ足を取りたかっただけの泥寿は黙った。


「泥寿、君はどうして今まで毒舎にいたのか、理由は知っているかな」

「ああ? 魔王を殺すためだろうが」

「なるほどなるほど。それで君はどこに行くんだ」

「オーラハプー王国だろ。西だ」

「ふうむ、そうか」

「おめえ、俺を虚仮にしてんのか?」

「いやね、ほら、オーラハプー王国は遠いだろう。一度国を出たら簡単に連絡を取るというわけにはいかなくなる。だから事前に情報の擦り合わせをしておいたほうがいいと思ってね」

「擦り合わせだ? 俺は魔王んとこ行って魔王に取り込まれる。魔王は死ぬ。それだけだろうが」


 泥寿は胸を張って答えたが、知らず知らずのうちにその膝が激しく揺れていた。なぜ袁恕が周知の事実ばかり聞いてくるのか分からないからだった。

 そもそも泥寿はずっと毒舎で暮らしていて、入ってくる情報は細亜細帝国によって管理されていたのだから、泥寿がどんな情報を持っているのか袁恕が知らないはずはない。泥寿の貧乏揺すりが激しさを増した。

 袁恕はそれをじっと見つめていたが、やはり咎めることはなく、片眼鏡の奥にある笑みは崩れなかった。


「いやね、少し前に白髪の娘に会ったんですよ。毒舎なんぞ私の行くところじゃないんですが、たまたま私と周りの事情が重なりましてね。それで少し、気になって」

「那楼と?」

「それにかわいそうですし」

「かわいそう?」


 袁恕は相変わらず笑っていたが、その笑みは一貫して冷たいものだった。最初に会ったときからずっと、袁恕は泥寿を嘲笑っていた。


「冷静に考えてくださいよ。毒食べて毒が体に蓄積するって、そんな馬鹿なことあるわけないでしょ」


 がたんがたんと場所が揺れていた。泥寿の膝は止まっていた。

 泥寿は一度、二度、口を開け閉めしたが、やがて余裕というものを思い出した。


「おい、半端眼鏡。おめえはどこの雑魚役人だ? 俺が秘法で生まれた兵器だって知らねえのか」


 妊婦に特別な入れ墨をし、特別な香を焚き、特別な儀式をし、特別な食事をさせ、そうして生まれた特別な子ども、選ばれし人間が泥寿たちだった。只人であればただ苦しむだけの毒を摂取し、一切の苦痛を感じず体の中にため込む、それこそが毒舎に住まう兵器だ。

 泥寿は仕返しとばかりにせせら笑ったが、袁恕の顔色が変わることはなかった。


「君たちが普通じゃないのは認めますよ。多分、痛覚とか嗅覚とか、いろんなものが欠如しているんでしょうね。君たちみんな変な髪と目をしてるでしょ。母胎で変な成長したからなんでしょうね。でも決して兵器ではないですよ」


 泥寿の上がっていた口角が引きつって真横になった。


「あのね、君たちのお母さんは後宮にいたんですよ。女官もそれ以外も来る予定だったのも合わせて五百人。いやあ、大変なことです。後宮っていうのは血税で保たれているわけですからね。少しなら壺や花と同じように愛でることもできますが、それだけいたら蛆虫と変わりありません。おぞましい。見たくもない。憎しみさえ湧いてくる」


 袁恕は懐かしむように目線を遠くに投げた。


「そう、憎くなってしまったんですね、陛下は。魔王のせいでオーラハプー王国からの食糧輸入もなくなって、どこの国も通夜みたいで、嫌なこと続きだったからかもしれません。心が沈むとささいなことが気に障りますからね。とにかく五百人の女が憎くて憎くて仕方なくなってしまった。

そこで、陛下は芝居を打ったんですよ。棒演技でしたけどね、皇帝陛下ですから誰も指摘はできなかったわけです。後宮をどうにかしないといけないのは本当でしたし。

陛下は魔王にかこつけて、五百人の女を苦しめて憂さ晴らししたんですよ。苦しめる行為自体を楽しんで、苦しんでいるさまを見てまた楽しむ。それで随分満足したようでしたが、惰性でしょうね、遺された子どももとことん虐げることにしたようです。

まともに産ませず、まともも育たせず。それが真相です。君たち全然、特別なんかじゃないですよ」


 動き続ける馬車の中で泥寿の浅い呼吸の音だけが響いていた。

 袁恕は笑顔のまま、じっと泥寿を見つめていた。それが我慢ならなかった。


「下ろしてくれ」

「はい?」

「お、下ろせっつってんだよッ!」


 袁恕の笑顔が初めて消えた。憐れんだのでも、驚いたのでも、ましてや怯えたのでもない。肥溜めに向かってにこにこしているのが面倒になってしまった、そんな印象だった。

 しかしそれも一瞬のことだった。薄い唇が小さく歪み、小さく声が漏れ、そして袁恕は喉を逸らせて哄笑した。呆然とする泥寿の前で、袁恕は声をあげて笑っていた。


「あのねえ、なんのために君を連れ出したと思ってるんです。冥途の土産に馬車乗せてあげようって親切心じゃないんですよ。仕事です、仕事。さっきのおしゃべりはただの世間話、暇つぶし。なんで下ろすと思ったんですか」

「――て、め、え!」


 泥寿は袁恕に向かって手を伸ばした。狭い馬車の中だ、その手は袁恕の胸倉を掴んだかに思われた。

 しかし今、現実として、泥寿の手は床板に触れている。手首から血を流して転がっている。手首を切り落とされた両腕からも、さらさらと鮮血が流れていた。


「な、な、」

「……まったくもう。遅いですよー、腕がなまったんじゃないですかー」


 どこかあらぬところを見て呼びかける袁恕の前で、腕のなくなった泥寿は絶叫した。


「俺の手、俺の手、なんで、俺の手が」

「なんでって私に触ろうとしたからですよ。汚い」

「俺の……あ、あ……あああああぁぁぁ……」





 泥寿の始まりの場所であり、生きた場所であり、そして終わりの場所となる毒舎の前で馬車が止まった。泥寿たちは毒舎の周りをゆっくり、時間をかけて一周しただけだった。

 黒い布で顔を隠した者がどこからか現れ、ぴくりともしなくなった泥寿を運び出した。


「どう考えてもでたらめに違いないですけど、一応秘法自体は昔の本から本当に見つけた内容でしたからね。万が一があったら怖いんですよ」


 袁恕はぶつぶつと言いながら馬車を降りた。袁恕が先ほどまで座っていた場所に、鳳凰の豪華な刺繍をされた天鵞絨の座布団が残されていた。


「なんなんでしょうねえ、理を破壊するって。阿呆としか思えませんけどねえ。本当だったら怖いですし、元の場所に隔離しとくのが無難ですよねえ。オーラハプーに向かっていって途中の国全部滅ぼすことになるかもしれませんし。……ないか」


 近くに停められていた金箔張りの馬車に乗り込み、袁恕はちらりと毒舎のほうを見る。

 今頃三人の『兵器』たちは、互いに掴み合い、罵り合い、自分と相手の品格を貶めている最中だろう。その間に、動かなくなった泥寿の体が肥溜めの中に深く沈められている。今夜からも変わらず四人で寝られるというのは結構なことだ。



 ゆっくりと、静かに進みだした馬車を、塀の向こう、毒舎の庭、決して見えるはずのない場所で那楼がじっと見据えていた。

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