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1.李泥寿の日常

 魔王が現れたのは今から十六年前、()泥寿(でいす)が生まれる前の年のことだった。


 遥か西方に位置する欧羅巴風(オーラハプー)王国は当時、美食の国として知られていた。善良な何人もの冒険者たちが大量に魔物を狩り、小さな袋にひとつ残らず肉を詰め、何里も離れた都市で新鮮なまま振る舞う。その大半が高級食材であり、オーラハプー王国の国民たちは皆、安価に絶品料理を楽しめるようになった。


 善良な冒険者の中には、労働の対価を一切求めず、無料で食材を調達し、無料で調理し、果ては対価も得ずに怪我を治し、仕事を手伝い、あらゆる面倒を引き受けた。

 オーラハプー王国は善良なる大聖人たちによって栄える豊かな国だったのだ。この細亜細(さいあさい)帝国からも住所不定無職が何人も足を運び、善良なる者たちから授かった施しを持ち帰り、それを売って労せず財を成すことに成功していた。オーラハプー王国を嫌う人間などいようはずもなかった。



 しかし、美食の材料にされる魔物たちからしてみればたまったものではなかったのだろう。

 ある真昼、天気に恵まれた日のことだった。安くて美味しい昼食を求める労働者と、呼び込みをする屋台の店主、家に走って帰る子どもたち。活気にあふれたオーラハプー王国の上空を突如として紫色の雲が多い、雷鳴と共に強大な力を持つ男が現れた。彼は魔王を名乗り、その圧倒的な魔力でたちまちオーラハプー王国を占領した。


 善良な冒険者たちは手に手に剣を持ち、呪文を唱え、三日三晩死力を尽くして戦った。圧倒的な力を持つ個人の力で攻め、智将による戦略で攻め、仲間たちの連携によって攻めた。

 誰もが最善を尽くしたが、たった一つの理由でオーラハプー王国は敗北した。


 魔王はあらゆるものを吸収する能力を有していたのだ。


 斬撃も打撃も魔法も吸収し、土に埋めれば土をエネルギーとして吸収し地上まで浮かび上がり、異空間に放り込めば空間そのものを吸収して戻ってきた。そして最後に、善良な冒険者たちの肉体も吸収した。



 残された全人類が次は己の番かと絶望していたが、細亜細帝国にはこの状況を打破すると思われるすべを手に入れた。それが泥寿が属する「毒舎(どくしゃ)」である。

 なにもかも吸収するならば、吸収されることを前提とした策を立てればよい。それが細亜細皇帝の考えだった。


 古代の書物から見出した秘法によれば、妊婦の体に墨を入れ、霊峰のみに生える植物の汁を燻し、絶えず祈祷し、氷水で沐浴させ、出産まで毒を飲ませ、そうして無事に腹の子が生を得たとき、その子どもは生まれながらにして強力な兵器となっているらしい。血も骨も肉も皮膚も、すべてが毒でできた兵器だ。


 それだけでも、すべてを吸収するという性質を持つ魔王に対して有効な手段であったが、さらにその子どもを肥溜めの中で寝かせ、毒で腹を満たし、誣言(ふげん)侮言(ぶげん)罵言(ばげん)のみを聞かせて育てる。そうして成人した子どもは理すらも破壊する力を得ると書かれていた。

 細亜細帝国における成人は十五歳。明日、泥寿は理を破壊する力を得る。




 泥寿はその日も肥溜めの中で目覚めた。毒舎の西の陰、もっとも日当たりの悪い場所に肥溜めがある。

 毒舎で育つ兵器は泥寿だけではない。今は四人の兵器が暮らしている。毒舎が開かれた当時は五百人の妊婦がいたが、四百人が子を産む前に死に、八十九人が死産し、十一人が生まれた。そのうち七人が成人前に死んだ。


 泥寿は残った四人の中で一番年上だ。だから絶対に他のやつらより先に起きたりはしない。

 他の三人のために働くなど死んでもごめんだ。なにせ泥寿は一番早く理を破壊する力を得るのだから、一番偉いのだ。


 近くでべちゃりべちゃりと音がした。近くで寝ていた那楼(なろう)が起き上がったようだ。

 那楼は銀の髪と赤い目を持つ少女で、泥寿の次に生まれた兵器だ。

 ぐぼりぐぼりと足を肥溜めの中に沈めながら那楼が近づいてくる。


 耳元でべちゃりと音がして、水っぽいカスが泥寿の頬に跳ねた。

 文句を言ってやろうとして目を開けた泥寿の目と鼻の先に、茶色く汚れた足の裏が迫っていた。那楼の足だ。

 そう把握したときには既に、泥寿は那楼に踏みつけられていた。水っぽい糞便のついた、乾いた皮膚で顔を踏みにじられ、肥溜めの中に押し込まれていく。


 泥寿は毒の皮膚を持っていたが、那楼もまた、毒の皮膚を持つ兵器だったので、お互いを接触のみで害することはできない。今那楼がしているように物理的な力をふるう必要があった。


 泥寿は体中の筋肉を覚醒させ、ほんの一瞬、爆発的な力で体を包むぬかるみを殴った。

 ごぽりずぼりという音とほとんど同時に、泥寿の体がバネ仕掛けのように宙に舞い上がる。その勢いのまま、体で三日月を描いて那楼のつんと澄ました顔を蹴りぬこうとしたが、あっさりと避けられ、泥寿は重力と慣性に従って地面に飛び込んだ――という表現はやや行儀が良すぎるかもしれない。泥寿の下半身は完全に肥溜めに埋まっていた。


「汚いのは寝意地だけじゃなく顔もだったのね、泥寿。目に毒だわ。消えて」

附子(ぶす)がぐちゃぐちゃさえずるな。言われなくても俺ァ明日にゃ魔王退治だ。てめえらゴミは残り滓啜る準備でもしてろや」


 泥寿が先に理を破壊する力を得、活躍の場に出るのだという事実は那楼の矜持に少なからず傷をつけたらしい。尖った鼻に皺を寄せた那楼を見て泥寿は意地悪く笑ったが、彼の腰から下は相変わらず肥溜めに埋まっている。


 那楼は踵を泥寿の頭に落とすと、ずぼずぼと肥溜めの中を進んでいった。向かう先には厨に通じる戸がある。

 毒舎にはいくつか決まりがあり、厨に行く順番によって自動的に仕事が割り振られる。一番目に厨に行った者は食事の用意をし、二番目に行った者は掃除をし、三番目に行った者はなにもせず、四番目に行った者はまた掃除をする。那楼は食にこだわりでもあるのか、飽きもせず毎日早くに厨に向かうのだった。


 泥寿は肥溜めから体を引き抜くと、まだ眠っている二人を睨みながら顔についた汚れを手でこそぎ落とし、一番幼い倭貴(わき)に投げた。そして弥玖(やく)の首根っこを掴み引きずり出す。弥玖は寝ぼけながら叫ぼうとして周りのぬかるみを飲み込んだが、気にせず包丁の音のする方向へ連行する。


 厨の戸を開けると那楼が食事の準備をしていた。泥寿は自分の体が敷居を超えないように気を付けながら、弥玖の体を厨の中に放り込んだ。弥玖の体は付着物をまき散らしながら机にぶつかり、派手な音を立てた。


「な、なんだ!?」


 それまでずっとまどろんでいた弥玖も、さすがに目が覚めたようだった。土間の上にへたり込んだまま周囲を見回し、状況を理解すると目をつり上げて歯をむいた。


「泥寿! てめえ、てめえ、このクソっ垂れッ! またやりやがったな!」


 泥寿は鼻を鳴らしてようやく厨に入った。これでなにもしなくていい三人目だ。

 弥玖は悪態をつきながら、濡れた布巾で机を拭き、厨を浄めた。

 毒舎では厨に食卓が置かれ、調理が終わればすぐ食事ができるようになっている。泥寿は椅子にどかりと座って那楼が準備を終えるのを待った。


 那楼の手は泥寿のものに比べて小さく、本当に理を破壊する力が宿るのか疑わしいほどだった。しかしそれでも、食材を掴み、包丁で叩き、刻むことに支障はないらしい。太さが二寸もあるムカデの殻を割ってぶつ切りにし、蜘蛛の粗みじんと和えて手で揉みこむ。濁った草の汁を椀に注ぎ、箸休めの丸薬を添えて完成だ。代り映えのない食卓だった。


「おーい、那楼。この俺が明日にはもういなくなるんだぜ。最後の朝食くらいちったあ凝れよ」


 冷ややかな赤い目がちらりと泥寿を見た。


「なんであんたなんかのために。あたしは明日もここで食べるのよ、なにも変わらないわ。あたしが作っているんだからあたしが基準に決まってる」

 

 泥寿が肘をつき、背を丸めて食事を掻き込む横で、掃除を終えた弥玖が最後の仕上げに香に火をつけた。この香は四半刻も焚き続けるとうっすら空気が色づき、胸がむかむかするようになる。泥寿たちはその中に半刻留まらなければならないと決まっていた。


 遅れて来た倭貴も食事を終え、やっと厨から出られる時間になる。香のにおいも、殴られてもいないのに涙が出るのも慣れたものだが、厨の中はなにもやることがないのがこたえる。横になる場所もない。


 普段ならこの後、毎日届く悪口だらけの手紙を読んだり、毒蛇を叩き殺したり、野犬に石を投げたり、殴り合ったりするのだが、魔王退治の旅を目前に控えた今日は違う。

 泥寿は一人で毒舎にある一室に向かった。

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