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一色違いのトリコロール

作者: 高野 M明

 弟は信号が好きだった。


 青から黄へ、黄から赤へ変わるたび母の押す乳母車の中で、キャッキャとはしゃいでいた。

 私はいつも、そんな乳母車の中の弟…紅太の横を並んで歩いていた。

 ある日、私は自分の人差し指を紅太の小さな手に握らせ、跳ねるような声で話し掛けた。

「青から黄色…そして赤…――ねえ、紅太。信号ってまるで…――」


 …私は何と続けたっけ…?











【一色違いのトリコロール】











 白い無機質な廊下を私は歩いていた。

 病院ですれ違う人の顔はスタンプを押しているように皆同じに見えていた。あの日から…そうなのだ。

 目的の部屋の前で足を止める。0727号室…今日も受付で確認した番号。何て覚えにくい数字だろうか。毒づいてみる…が、覚えたくもないものが素直に頭に根付くわけが無い。おそらく問題があるのは私のほうなのだろう。

 そんな白黒判断しにくいグレーな心境で私は部屋のドアを開けた。


 右手の奥…色を塗り忘れたキャンバスのように真っ白なベッドで母は本を読んでいた。相変わらず病室には母一人だけだった。

「葵…」

 私に気付くと、カバーを栞代わりに折り入れ、本をぱたんと閉じた。…私はお見舞いに買ったわらび餅を盾にするような思いで近付いた。

「これ…お見舞い」

 近所のマーケットの大袈裟な袋を渡す。

「ありがとう」

 母は少し苦いカフェオレのような表情でそれを受け取った。盾を無くした無防備の私を気づかうような顔にも見えたが、私の勘違いだろう。そう願いたい。

「わらび餅?」

 袋を覗きながら母が呟く。

「半額…紅太も好きだったから」

 『紅太』の名前に母の手が、コンセントを抜かれてしまったテレビのようにピタリと止まった。

「…葵…」

 平静を保とうとして失敗したのだろう、母はピカソの絵のような顔を私に向けたきた。もともと音の無い病室だが一層静けさが増したようだ。肌にもひんやりとしたものが感じられるほどだった。

「紅太はもう…」

 母は俯き加減に遠い眼をしていた。

 いつもだ。母は紅太の話題を出さないよう努めている。娘の私に気を使っているのか?余計なお世話だ。それとも私ではなく自分のほうを守っているのか?それこそ私の知ったこっちゃない。

「わかってる」

 そんな母から視線を逸らし言う。そう、わかっている。しかし私が固執しているのはそんな結果論ではない。

「けど…私は許さない…」

 部厚い辞書さえ破れそうな声で私は呟く。そう許しはしない。あれが紅太を殺したと言っても過言ではない。違う、殺すだけならまだマシだ。あれは紅太の気持ちを弄んで捨てた、あれは紅太の気持ちを踏み躙ったのだ。

「そうね…私も恨んでないって言ったら嘘になる…」

 母は頭を垂れたまま私を宥めるように話し出す。恐らく、溜息がそのまま言葉になるとしたらこんな感じなのだろう。

「いくら謝罪されても…紅太は戻ってこない…」

 ほとんど涙眼で母は続けた。

 この人はわかっていない。そんな事問題じゃない。

「でも、あの人も本当にすまないと思ってるはずよ…」

 違う。

「でなきゃ、あんな…」

 違うっ!!!

「そんなこと言ってるんじゃないの!!」

 私の学校の椅子を投げ壊すような声に、母はビクンと身体を震わせた。どうしていいのかわからないのだろう、彼女は眼を丸くし凍り付いている。静まり返った病室にキーンと先ほどの声の余韻が耳に伝わってくる。

 今泣いたら、涙の代わりに血が出るに違いない。私は食される前の兎のように縮こまった母を突き刺すように一瞥し、出口へ向かった。

「葵…っ」

 私はへばり付いた蜘蛛の巣を払うように病室のドアを閉めた。永遠に開かなくなる事を望むように…後ろ手で取っ手を絞め殺すほど握り締めながら。そして、自ら吐き出されるように病院を出た。

 今気付いたが、母の顔も皆と同じだった…。




 反吐が出そうだ。母はわかってない。紅太が死んだのは誰の責任か。

 あの日…いつもの学校の帰り道…。歩道を挟んで笑顔を交わした家族。

 あの青と称されるエメラルドグリーンの光を目にし、安心しきった顔で私のほうへ向かって来る買い物帰りの母と乳母車の中の紅太。透けるように純粋な信頼をその信号に寄せ、いつものように一色違いのトリコロールにはしゃいでいた紅太…。そして…

 飛び込んで来た大型トラック……――。

 二人の信頼をあの三つ目は、穴の開いたソックスを捨てるように裏切ったのだ。

 無論結果的に、国家によって裁かれるのは罪の意識から自殺未遂まで犯したあのふざけた居眠り運転手だ。だが、私はそれ以上に頭上でそのルールを犯した車の進入を傍観していた、冷たく無慈悲な信号のほうに怒りの念を抱いていた。

 考えてみれば信号というものに何の力が在るのか?人間も止められない信号に車を止められるわけがない。弟はあんな無意味な色電柱に好意を寄せていたのだ。

 信じても、愛しても、信号はただの鉄柱だ。

 それを隠すように裸のライトを三色の仮面で覆い、偽りの素顔に魅惑的な表情を投影する。美しい色で染められた苦い飲み薬のように。

 それに人々は騙されるのだ。何時、流れ弾が飛んでくるかわからないアスファルトの荒野へ足を踏み入れる。安全弁の外れた爆弾を抱え、ありもしない命綱を手にし、パラシュートを確認せず飛び下りるのだ。そして『信じたのは貴様らの勝手』と色の無い声で突き放されるのだ。

 思えば紅太は信号のように死んでいった。青い顔…黄色い肌…そして真っ赤な…――!!

 こんなものを愛した紅太は死んだ。

 紅太の愛は何処へいった?

 …答えろ、信号!




 気付いた時、私はあの場所に来ていた。紅太を失ったあの場所へ。

 その紅太を裏切った三つ目の柱は、平然とそこで私を見下ろしていた。

 相変わらず、ちかちかと夜の街のネオンサインのように道行く人々を誘惑する。そして相変わらず、誘うだけ誘っておきながら後の事は無関心のようだった。相変わらず、相変わらず、人も車も制止させない。アスファルトの荒れ模様が改善される気配は微塵も無い。

 こんなもので無法地帯の統制を図ろうというのか?

 こんなもので事故がなくなるわけが無い。

 こんなもので死人がなくなるわけが無い。

 こんなもの何の意味も無い。

 こんなもの、

 いらない。


 こ・ん・な・も・の・い・ら・な・い。


 ボッとガスコンロのような音が聞こえた。

 信号は私の手によって、バースディ・ケーキのロウソクに付いたクリームのようなコンクリートを根本に残し地面から剥がされていた。三つ目の下まつげにはまだ数本の電線が付着したままだ。周りからの奇異の声を私は無視し、その線を契り捨てるように引っ張った。ぶちぶちぶちと、イクラを潰すような感覚が内部に伝わり、それは私の性感帯までも刺激する。

 世界で一番憎々しい存在は、今私の手の中にあった。

 それを私はメンコのように力一杯地面に叩き付けた。工事現場でもまれにしか聞けないような激しい音をたて、そいつは横倒しの形で半分地に減り込んだ。絶対音感を持っていても今の轟音は表現できないだろう。

 ぴくぴくと痙攣しているように映るそいつの細い首を、私は思い切り踏み砕いた。どくりと生唾を飲み込む音とともに、三つの眼はニ、三度瞬き、その光を失った。死んだ眼球は熱い氷のような私の眼を映していた。

 私は自分の肩を抱き新品のガラスを鉤爪で引っ掻いたような声で叫んだ。死んだ三つ目に向かってではなく、天を仰ぎながら。何度も、何度も。その中に、言葉と認識できるものは存在していなかったと思う。達成感か、優越感か…何が私をそうさせたのか?そんなことはどうでも良かった。

 何故なら…私はまだ、やらなければ…。

 無意味な存在はこいつだけではない。紅太を弄んだのはこいつだけではない。今考えれば、全ての信号が色鮮やかな化粧で紅太の想いを着服していたのだ。

 周囲からは荒波のようなざわめき、そして警報のごとく鳴り響くクラクション。椅子を引きずるようなブレーキの音の後、ドラム缶同士がぶつかるような音が耳に入る。

 私はそんな音の波を掻き分け走り、二本目の信号に手をかける。ボコッとそいつの腹を握り潰すよう抉ってやると、あっけなくその場に倒れ込み、自分の三つ目で止められなかった赤い乗用車に頭を潰されていった。その二本目の残骸を冷たく見据え、私は頭に素晴らしい考えを浮かべる。

 そうだ、この町全ての信号を紅太へ持っていってあげよう。

 こんな物が大好きだった紅太…。どんなに手を伸ばしても、小さな紅太には届かなかったこの薄汚い存在を、あの子の墓に立ててあげよう。それが三つ目の裏切り者どもの贖罪だ。

 決まった。私は口付けしあって火を噴いているバイクと車を横目に走る、そして向かいの三本目に手を伸ばす。

 そのとき、今までにないほどの近い位置から、細かなノイズさえリスニングできるような大きなクラクションが聞こえた。音に反応し私は振り向く。

 …そのダークブルーの車体は私の左手に迫っていた。

 衝撃。左脇腹のあたりが、ごりゅりと音を立てた。

 瞬間、私は無重力を体験した。ずさぁと砂の上を走るような摩擦音。私はコールタールの臭いのする荒野に投げ捨てられた。

 先ほど聞こえたあれは、骨の音か肉の音かどちらだったのか?ちかちかと、死にかけの蛍光灯のような頭でそんなことをぼんやり考えた。地面と体の摩擦熱だろう、身体が赤い鉄のように熱い。その火照った身体にローションのような冷たい感触、血だ…。

 そう、冷たい、冷たくて気持ちいい。ぐりぐりと焼き鏝され続けているような脇腹の痛みは、もうどうでもいい。その肌の上を滑ってゆく冷たい快感に、私の眼は悦楽によって細められた。

 そのとき何かが…眼にしみた。

 先ほどの三つ目どもと同じよう惨めに横倒しになった私を赤い光が照らしている。気付くともう…夕刻だった。


 …思い出した…――




 青から黄色…そして赤…――ねえ、紅太。信号ってまるで…――


『空みたい』


 紅太も母さんも…そして私も…、空を見上げて笑いあった…――




 頬を熱いものが伝っていった。

 そう、それは氷枕のようにひやりとした鮮血ではなく、ただあの沈みゆく太陽のように熱くて…悲しかった…――。

 そうだ。弟の為と思いながら…私はただあの三つ目に嫉妬していただけなのかもしれない。あんなにも、紅太に想われ愛されていた『信号』というものに…。

 結局ただの自慰行為だったという事を告白する。まぶたの裏の弟へと。

(ごめんね…紅太…)

 意識が気化していく中、クラクションが一際大きく唸る。


 また、自分の肉が潰れる音がした。

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