海の中の星空
それからも少年は少女とよく話し、よく遊び、よく笑いあっていました。
しかし、いつの頃からでしょうか。少女にたびたび心配されるようになりました。
「さいきん元気がないみたいね。どこかぐあいが悪いの?」
少女に聞かれても、少年に自覚はありませんでした。少年はただ、少女の話に耳を傾けているだけです。それが気がつくと、少女に心配されているのです。
「少し眠いのかもしれないや。ここはいつもまっ暗だから、夜の中にいるみたいな気分になるのかな?」
少女を安心させたくて、少年は意識して笑顔を浮かべました。
すると、目がじわりと熱くなり、少年は思わず目をおさえました。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
心配する少女に少年は首を横に振ります。
少女へ笑いかけながら、少年は泣いていました。ただ、あふれた涙はすぐに海の中に広がって少女には見えませんでした。
少年は自分でも理由がわからないまま、見えない涙をあふれさせていました。
少年は日に日にぼんやりとしている時間が増えていきました。
自分でもおかしいとわかるようになった頃には、ここを去っていった大人たちが最後にはどんな気持ちだったのか、少年にも想像ができるようになりました。
くるしい。
かなしい。
さびしい。
つらい。
そんな気分が絶えず少年の胸を締めつけます。
うずくまって泣きたくなることもありました。
そのたびに少女に心配されましたが、少年はいつも「僕はずっとそばにいてあげる」と答えていました。
その日、少女は少年を抱えて急いでいました。
行く先は魔法使いのところです。
とても急いでいたので、いつも二人の前を照らしてくれるチョウチンアンコウを置き去りにしていました。
大きな貝の前に到着すると、少女は少年をそっと下ろしました。
少年は目を閉じたまま、ぐったりとしていました。
「彼は病気なの?」
「そうだね。病気のようなものだね」
少女がたずねると、魔法使いは何本もの手で少年に触れながら答えました。
魔法使いは過去に見た似た症状を思い出していました。
ここまでひどくはありませんでしたが、以前の人間たちも最後にはぼんやりとしてあまり動かなくなっていました。
「魔法使いさまの魔法でも治せないの?」
「むりだね。これは太陽が恋しくなる病気だ。この深い海の底にいる限りは治らない病気だよ」
「今までの人たちもそうだったの?」
少女の質問に、魔法使いはすぐには答えられませんでした。
「みんなそうだったわ。だんだんとここは暗すぎるとさびしがるようになって、いなくなる前にはとてもつらそうだったの」
少女は以前に親しかった人々のことを思い出します。
軍人はだんだんと口数が少なくなり、知識を忘れていきました。
船乗りは歌うことが減り、楽しむということを忘れてしまいました。
婦人は人間の立ち居ふるまいを忘れ、泳ぐ魚をただながめていました。
「だからみんなはこの海の底とお別れしていったの?」
少女が気がついていたことを知って、魔法使いは彼らを天へ帰したことを打ち明けました。
優しかった人たちのゆくえを知り、少女は安心しました。もしも今も彼らが暗い海の底をさまよっていたらとも心配していたのです。
ようやく追いついてきたチョウチンアンコウが少年の顔にランプを近づけますが、少年は気がつく様子はありません。
「やっぱり、陸の生きものは太陽の光のないところでは生きていけないのかね」
魔法使いは少年に触れながらあきらめたように言いました。
少女は魔法使いを見上げました。
「この子を海の上に帰すことはできないの?」
「この子は一度死んでいるんだよ」
「どうしてもむりなの? 私の髪の毛をすべて切っても?」
少女はまとめあげた自分の髪の毛に触れました。
美しい髪は強い魔力の源となるのです。これまでも、長く伸びては魔法使いへ渡していました。
「それだけでは足りないのさ。命を戻すには、同じくらいの力が必要になるんだよ」
なにを代わりにすれば少年を生き返らせるだけの力になるか、魔法使いははっきりとは言いませんでした。
けれど、少女はすぐに代わりとなるものを思いつきました。
「私の命で足りるかしら?」
「じゅうぶんだよ。人魚の寿命は人間よりもずっと長いからね」
魔法使いはごまかさずに答えました。
少女が思いついたとおりでした。魔法で命をひとつもどすには、同じくらい元気な命がひとつ必要なのです。
「なら、お願い。私の命と引きかえにこの子を生き返らせて」
少女に迷いはありませんでした。
魔法使いが少年を生き返らせることができるのなら、自分にできることがあるのなら、少女はなにも惜しくはありませんでした。
「いいのかい?」
「私も、もうお別れをしないとね」
海王の命令を聞くことができず、深海に百年もとどまっていましたが、いつまでもこうしているわけにはいかないと少女もわかっていました。
少女は今までにたくさんの別れを経験してきました。それは人間とだけではなく、海の生き物ともです。
クラゲや、アンコウや、以前にはイカやヒトデやエビといったさまざまな生き物たちが少女に寄りそっては、その命を終えました。小さな生き物たちは何世代も通りすぎていき、少女が生まれた頃から生きているあのクジラでさえ、クジラの墓場がある深海の谷へ向かおうと考えています。
今度は少女が海と別れる番です。
「私がお別れしたら、魔法使いさまをひとりにしてしまうけど」
少女はずっと一緒にいた魔法使いの腕をにぎりました。
「いいんだよ。私はきっと忘れてしまうから」
魔法使いは急にそんなことを言い出しました。
「この百年も、私が生きてきた時の中では一瞬さ。一瞬一瞬のできごとをすべては覚えていられないからね。私はきっとおまえのことをすぐに忘れてしまうよ」
これは半分うそでした。
太古の海から生き続けてきた魔法使いは、確かにすべてを覚えているわけではありませんでした。けれどまた、いつまでたっても覚えていることもありました。
少女のことはずっと覚えているかもしれません。忘れてしまうかもしれません。どうなるかは魔法使いにもわからないので、だから気にせず、少女のしたいようにすればいいと伝えたのでした。
魔法使いは少女の胸から命を取り出しました。
命はつかのま太陽のように強い光を放つと、魔法使いの腕にくるくると丸められてまっ白な玉になりました。
その玉を今度は少年の胸に押し当てると、すっと吸い込まれていきました。
「さあ、もう時間がないよ。お行き」
「いつまでも元気でね、魔法使いさま」
「ああ。いつまでも元気で、いつまでも長生きするよ」
少女は少年をしっかりと抱きかかえると、魔法使いに見送られながら力強く泳ぎ始めました。
あこがれの星空が遠ざかってから百年。少女はとうとう、海王に命じられた人魚のほこりを取り戻すことはできませんでした。
けれど、少女にとってはとても楽しい百年でした。
少女の尾ひれが厚い海のベールの向こうに見えなくなると、魔法使いは自分の貝殻の中から少女が宝物にしていた機械を取り出しました。
しばしのあいだその機械を見つめると、また大事そうに貝の中へしまいこみました。
目を開けた少年は、自分が泳ぐ少女によってどこかへ運ばれていることに気がつきました。
少女の肩ごしに見える海の中には、光るクラゲの姿が見当たりません。
ずっとぼんやりとしていた少年は、少女と魔法使いの話がまったく耳に入らなかったため、今、どんなことが起きているのかわかっていませんでした。
「気がついた?」
身じろぎをした少年に、少女は海面へと急ぎながら声をかけました。
「僕たちはどこかへ行くの?」
「あなたはこれから生き返るの。今、海の上へ向かっているところよ」
少年はおどろきました。
生き返ることができる。そんなことは、海の底で目が覚めた時から一度も考えたことはありませんでした。
「僕は生き返れるの? 魔法で?」
「そう。魔法使いさまの力よ」
少年は魔法使いにそれほどの力があったことにおどろき、大人たちのことは天へ帰していたのに、自分は生き返ることになったのが少しふしぎでした。
「私がお願いしたの。あなたを生き返らせてって」
少女にそう言われて、少年はがっかりしました。
まだまだ若い少年は、人生を取り戻せることはたしかに嬉しくもありましたが、しかしそれ以上に、少女にお別れをされることが残念でしかたがなかったのです。
「ずっと一緒にいてあげるって約束したのに」
「私はもうだいじょうぶ。今まであなたといろいろ話せて楽しかったわ」
少女の声はとても落ちついていました。
しっかり抱えられているので、少年には少女の顔が見えません。
「君は僕を海の上まで連れていったらどうするの? また海の底に戻るの?」
少女は答えません。
聞こえなかったのかもしれないと、少年がもう一度聞こうとしたその時です。
少年を抱きしめている腕から急に力が抜けました。
海の中に投げ出されてあわてる少年の前で、少女は泳ぐことをやめ、ぐったりとしています。そして、その体はゆっくりと少年から遠ざかっていきます。
少年は必死に手足を動かし、少女へ向かって泳ぎました。
もう少しで伸ばした指先が少女に届こうとしたその時。
少女の体がはじけ、無数の泡になりました。
あっと思うまもなく、泡となった少女は海面へ向かってのぼっていきます。
少年がぼうぜんとして見上げていると、少女の後を追うように海の底から小さな小さな玉が数えきれないほどのぼってきて、少年を取りかこみました。
その光景はまるで、海の中に星空が広がったかのようでした。
海の中に産まれた星の正体は、サンゴの卵でした。海の底のサンゴが時期を迎え、いっせいに産卵を始めたのです。
卵は後から後から産み出され、海中を埋め尽くします。
少女が言っていた星空とは、このサンゴの産卵のことでした。
けれど、一緒に見ようと言っていた少女はもういません。
ぼんやりとサンゴの星空をながめていた少年は、まぶたがじわりと熱くなるのを感じました。
けれど、目をおさえることはしないで、しっかりと星空を見つめました。少女の分までしっかりと見つめていました。
まるで夜空に浮かんでいるかのような感覚に包まれながら、少年の体ははるか海の上へ向かってのぼり続けていました。