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変のよしあし  作者: ころ太
第一章 色を持たない私たち
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第1話 知らないキミといらない私

 


 仕事を終えて外に出れば、すっかり辺りは暗くなっていた。

 今日もいつも通りの残業だったので、陽は落ちているだろうとは思っていたが、こうして目の当たりにすると重い溜め息が出る。残業代がしっかり出るので救いはあるのだが、たまには定時で上がって明るい時間に帰宅したいと願ってしまうのは贅沢なことだろうか。今の会社に就職してからまだ1カ月のド新人なので、残業を安易に断れないのが現状だ。景色だけでなく気分まで暗くなりそうなので、余計なことを考えるのはやめておこう。

 とにかく、本日の仕事は無事に終わったのだ。色々なかったわけではないが、労働から解放された喜びを噛み締めてさっさと帰宅するに限る。


「おっと」


 休息を求めて踏み出した足は、すぐに囚われて動かなくなる。


「今日は星がたくさん見えるな」


 藍色を深めた夜空を見上げ、月を探した。夜に外へ出ると月を探してしまうのは、幼い頃からの癖みたいなものだった。昔はよくお母さんと一緒に星空を見て、どちらが先に月を見つけるか競争していたから、その名残りなのかもしれない。ぐるりと見渡して、すぐに目当てのものは見つけることができた。仄かな光を放ち、闇夜を照らすソレは、綺麗な弧を描いて存在している。今日はちょうど満月らしい。


「……月が綺麗ですねぇ」


 母が月を見ると必ず呟いていた言葉が、吐息と共に私の口からするりと漏れた。かつて文豪が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した有名な逸話がある。愛を伝える表現としてよく使われるそうだが、私の呟きにそのような深い意味などありはしない。言葉通りに月が綺麗だったから綺麗だと口にしただけだ。自分には想い人などいないし、これから先もきっといないだろうから、誰かに向けて月が綺麗だなんてロマンチックなセリフを吐く機会は訪れない。そもそも、気持ちを遠回しに伝える性分ではない。月を探す習慣みたいなことをやってはいるが、月が特別好きというわけでもない。月を肴に一杯やるよりも、チーズの入った竹輪をつまみにビールを飲む方が好みだった。そんなわけで、残念ながら私という生き物は奥ゆかしい感性とは全く無縁のようである。別に困りはしないので、どうでもいいことだけれど。それに今一番大事なのは、帰ってからの晩酌と睡眠なのだ。月の観察は早々に切り上げて、早く住処へ戻らなければ。


「ん?」


 月から視線を外して帰路へ目を向けた私は、僅かな違和感を覚えて眉を顰める。何か、不自然なものを見てしまったような気がした。正体はわからないけれど、確かめてしまえば面倒な事になりそうな予感がする。こういう時の勘はよく当たるので違和感など気にせずさっさと帰ってしまえばいいのだが、確かめなければ後悔しそうな予感もある。なにより、スッキリしないまま帰宅するのは御免だ。心からの安寧を得る為には、僅かな懸念も消しておきたい。

 そう思い再び夜空を見上げると、そこにあるのはやはりただの満月だった。何もおかしいところはない。しかし視線を少しだけ下げると、違和感の正体に気付いてしまう。案の定というか、やはり嫌な予感は的中してしまったのだ。見なかったことにして帰りたい欲求を飲み込んで、仕方なく目を凝らす。月の浮かぶ空を背景にして建っているのは、先程まで私が働いていた工場だ。その二階建ての古びた建築物の屋上に、不審な人影を発見した。設備の点検か何か作業をしているのではと思ったが、こんな暗闇で明かりを点けず、安全柵であるフェンスの外側に立って一人ぼんやりしている姿を見れば、即座にその可能性は消えてしまう。では一体あの人は何をしているのだろうと考える。きっと、誰もが口を揃えて呟くであろう。あれはどう見ても自殺志願者だ、と。


「勘弁してよっ……!」


 事態を把握すると地面を弾くように足が動いた。屋上へ続く非常階段を探して駆け周るも工場は広く、いたるところに物資を積み上げてあるせいで見つけにくい。新人で構内を把握していない私が無暗に探すより、他に人を呼んできた方が早いだろうか。とりあえず事務所に連絡してみようと、ポケットに突っ込んでいた携帯に触れれば、ブルルと震えが手に伝わる。こんな時に着信か。間が悪いな。


「いや、まてよ」


慌てて画面を見れば、電話をかけてきたのは予想通りの人物だった。間が悪いなんてもんじゃない。きっとこれは絶好のタイミングを窺っていたのだ。僅かに躊躇して、すぐに通話ボタンを押す。


「もしもし」

『非常階段は右に曲がって左の道をまっすぐよ』

「工場の関係者じゃない人がなんで非常階段の場所を知ってるの。っていうか非常階段を探してることを知ってるってことは……ああ、もう、またかですか」


 後ろを振り返れば物陰に人影を発見した。間違いなく電話をかけてきた本人だろう。


「うちの工場、関係者以外立ち入り禁止なんですが」

『私と貴女の仲を邪魔する障害なんてない』

「話を聞いて」


 門の所に守衛さんがいるはずなんだけど、どうやって見つからず抜けてきたんだか。不法侵入で捕まっても知らないからね。


「なんでもいいからさっさと帰ってよね。誰かに見つかると厄介だし、夜の一人歩きは危ないから」

『ああ、優しい…好き…愛してる…』

「はいはい。じゃあね“ストーカーさん”」


 何やらぼそぼそと呟いていたが、急いだ方が良さそうなので通話を切る。言いたい事は沢山あったが、悠長に話している時間はない。それに今回は必要な情報を教えてくれたので、お小言は吐き出さず飲みこんでおく。薄暗い道を一人で帰すのは心配だが、当人が変質者の類なので大丈夫だろう。

 彼女が言った通りの道を辿ると本当に非常階段があったので勢いよく駆けあがる。工場は二階建てなのですぐに屋上へ登ることが出来た。立入禁止と書かれたプレートがついたチェーンを軽く飛び越え、フェンスの向こう側にいる彼女の元へゆっくりと近づく。


「だ、誰ですか!?」


 足音で気付いたのだろう。私より頭一つ分ほど低い身長の女性は、驚いた声を上げてこちらを振り返った。……ああ、良かった。私の声に反応するということはまだ飛び降りるつもりはないのだろう。自ら死を決意してしまえば今更誰が声をかけようと関係ないだろうから。少なくとも、話を聞く余裕はあるらしい。


「えっと、この工場の製造Dラインに配属された新人の小松谷 喜代です。怪しいものではありません」


両手を挙げての無害アピール。刺激するとまずいのである程度の距離をとって歩みを止める。


「Dラインって、噂の……」

「はい。その噂のDラインの者です。それよりこんな時間にこんなところで何やってんですか。二階建てとはいえ、かなりの高さがあるので落ちたら間違いなく死にます。危ないですよ」

「ほ、放っておいてください。貴女には関係ないことですから」


 確かに彼女の言う通りだ。この女性とは初対面で何の関係もないし、何も知らない。後味は悪いが、ぶっちゃけ帰ってもいい。放っておけと言われたのだから従うのが優しさかもしれない。だがこのまま何もせず引き下がるのは時間を無駄にしたことになる。それは負けた気がして嫌だ。それに全く関係ないというわけでもない。部署は違えど彼女は私と同じ会社で働いている同僚だ。ほんの小さな関わりがあるのなら、ほんの小さなお節介を焼いても問題はないだろうと、自分を無理やり納得させる。


「いや関係ありますよ。貴女が飛び降りて死んだら、騒ぎになってしばらく製造止まっちゃうじゃないですか」

「……あの、私が飛び降りようとしてるの、止めに来てくれたんですよね?」

「はい。納品日まで余裕がないのにライン動かせなくなったら困るので」

「私のことを心配してくれたのではなく?」

「えっ…ウン、トッテモシンパイシマシタヨ…?」

「うっそですよね!? 絶っ対それ嘘ですよね!? わたしのこと一ミリも心配してないですよね!?」

「いやいや。二センチくらいは本当に心配しましたよ」

「短くないですか!?」


 無駄に元気な自殺志願者は、ぎゃあぎゃあと文句を言ってくる。この人、本当に飛び降りる気があったのだろうか。自殺するつもりなどなく、ただ月の写真を撮る為に身を乗り出していたと言われても不思議じゃない。


「心配しろと言われも、私は貴女のこと何も知りませんし」

「うっ、確かにそうですね。名乗ってもらったのに自分が名乗らないのは失礼でした。遅くなりましたが私は製品検査室の有村 満といいます」


 製品検査室。確か出来上がった製品を目視で確認する部署だったはずだ。組立のライン(部署)から離れているしクリーンルームで隔離されているから一度も行ったことがないところだが、聞いた話によると検査室の人たちは一日中ずっと座りっぱなしで、拡大鏡を通して製品と睨めっこしているらしい。同じ姿勢で同じものを凝視してると飽きたり気が狂ったりしないのだろうか。あー、それで精神を病んで自殺を考えてしまったとか? いや、流石に理由としては弱いか。きっと他に死にたくなるほどの重たい理由があるのかもしれない。

 有村と名乗った女性は、唇を震わせながら胸の内をゆっくりと吐き出し始めた。


「実は……付き合って一ヶ月の彼氏に浮気されていたんです。それで私、悲しくてもう死ぬしかないなと!」

「予想以上に軽い理由だった」

「か、軽くないです! そりゃあ付き合い始めたばかりだったんですけど、これから幸せになるぞーって思ったら急にどん底に突き落とされたんです。絶望して辛くなるに決まってるじゃないですか」

「んなもん知るかっつーの……あ、いや、違う。えっと、よしよし辛かったですね。じゃあ次の恋、頑張ろっか!」

「貴女の態度の方が軽くないですか!?」

「うるせぇ、文句言うな。私は早く帰ってビールが飲みたいんだ」

「じゃあ小松谷さんは何でここにいるんですかさっさと帰ればいいじゃないですかっ!?」

「自殺しようとしてる人間を放って帰るほど薄情じゃないんで。看取るくらいの慈悲はあるよ」

「貴女やっぱり止める気ないですよね!? むしろ飛び降りる前提で話してません!?」


 あんたもほんとは飛び降りる気ないですよね、とは流石に口にしない。煽って本当に飛ばれたら困る。しかし自殺願望がそれほど強いわけではないのはいいが、これからどうやって説得しようか。こういうの苦手なんだよなぁ。巧みな話術スキルがあれば彼女も早く説得できただろうし、もっと給料の高い会社に就職できただろうが、悲しいことに自分には備わっていなかったので叶わぬ願いである。


「悪いけど、私に期待されても困るよ。死ぬか生きるかを決断するのは、あんたしかできなんだから」

「っ!」


 人の人生を左右できるほど私は偉いわけじゃない。彼女にとって重要な人物でもない。命なんて重たすぎるものを持てるほどの器でもない。私はただ、偶然現場に居合わせてしまった他人だ。


「そう、ですね。ごめんなさい。私、今日初めて会った貴女に、期待と責任を押し付けようとしてたんですね」


 彼女は私から視線をはずし、フェンスに背中を預けて夜空を見上げた。煌めく星々を見ているのだろうか、それともただ虚空を見つめて物思いに耽っているのだろうか。背を向けられているので表情は窺えないから、彼女がいまどんな表情でその場に立っているのかわからない。


「こんなだから、駄目なんですね。ふふ、やっと運命の人に巡り合えたと思ったんだけどなぁ」


 乾いた笑い声は夜の闇に消えて、後に残るのは静かな沈黙。徐々に空気が冷えるのを感じ、ぶら下げていた両腕を組んで寒さに抗ってみる。


「つーかさ、良かったんじゃないの一ヶ月で別れて。何年も付き合って浮気される方が辛いんじゃないの?」

「確かに辛いかもしれません。でも、その数年分は、一緒に過ごした幸せな時間を貰えるじゃないですか」


 そういうもんですかね。幸せな時間が積み重なればなるほど、終わった時の喪失感は大きいと思うのだが。信じていた相手に裏切られた時、彼女はその幸せな時間とやらを憎しみに変化させずに綺麗な思い出として残せるのだろうか。


「ずっと、欲しかったんです。大好きな人と一緒に過ごす時間が」


 たとえ終わるとわかっていても、それでもひとときの幸せを求める彼女は、果たして幸せになれるのであろうか。その答えを持っているのはやはり彼女だけである。教えて欲しいとは思わないが、欲しいものの為に自らバッドエンドへの道を歩くなんてアホらしいとは思う。共感は出来ない、だが理解はできてしまうのだ。悲しいことに。最悪の結末が待っていると解っていても、手に入れられる僅かな可能性に魅了される気持ちは、痛いほどに理解できてしまう。ほら、美味しいものは総じて身体に悪いっていうし。良くないとわかっててもマヨネーズとか七味とかたっぷり料理にかけちゃうし。……なんて言ったらそこの彼女はどんな反応をするだろうか。興味はちょっとあるけど、怒った勢いで飛び降りられたら私が自殺幇助の罪で捕まりそうなので黙っとこ。


「欲しいんなら、また探せばいいでしょ。まだ若いんだし時間なら沢山あるじゃん。こんなとこでうだうだ悩んでるより素敵な出会いを求めて街に行く方がずっと有意義だって」

「私なんかに、出会いがありますかね。23年生きてきて、たった一度しか付き合えなかったんです。それもたったの一ヶ月間ですよ」

「はん、それがどうした。私なんか21年生きてきて恋愛経験ゼロだぞゼロ」

「あ、年下だったんですね」


 どうしてそっちに反応するんだ今は歳とかどうでもい……え、年上だったのかこの人。背が低くて童顔だからてっきり自分より年下だとばかり。いやいや、年齢のことはひとまず置いといて。


「諦めるのは早すぎる、と年下の私は思うわけですよ。運命ってのは、結局ひとつの“運”なんだ」

「運?」

「そう。めぐり合わせ。今回は運が悪かったんだよ。だから浮気するような馬鹿な奴や、私みたいな変な奴と縁が出来る。ま、運が良けりゃそのうち出会えるでしょうよ。あんたの言う運命の人って奴に。悪いことがあったら良いこともあるってのが定説っていうし。必ず比例するってわけでもないけどさ。生きてれば何かしら得られる物だってあるはずだ」


 死ねばそこで終わり。でも、生きていれば必ず何かを得られる。それが良いものか、悪いものかは、わからない。『運』次第ってやつだ。


「運が悪かったから死ぬって、アホらしいと思わない?」


 有村さんはこちらを振り返り、呆然とした顔を向ける。月明りで照らされたその表情は神秘的で、どこか間抜けだった。


「……運が悪かった、のかな。あはは、それなら、そうだとしたら……うん。まだ、諦めたくないかもです」

「それでいいんじゃないの。可能性がある限り、やれることは全部試せばいい。望みを捨てきれないのなら、苦しくても耐えて耐え抜けばいい。飛び降りるのは、それからでも遅くはないよ。どうしようもなくなったその時は、好きにすればいいさ」


 短絡的だったとはいえ、死にたいほど辛かったのなら、立ち直るのもひと苦労だろうけど。

 でも。


「――はい。そうします」


 彼女は迷わず未来を選んだ。

 ぎこちなく笑みを作って、彼女はまっすぐ前を向いた。どうやら思いとどまってくれたらしい。

 縁を結んだことにより発生した最低限の義務は果たせたので、もう帰っていいだろうか。慣れないことをしたせいで気力を根こそぎ持っていかれた。


「じゃ、そういうことで。あとは勝手に生きてくれ」

「小松谷さんっ、その、ありがとうございました。私、素敵な恋愛ができるように頑張ります! 結婚式にはぜひ出席してください!」

「え。嫌だよめんどくさい」

「そんなー!?」

「まず先に相手を探さんかい」


 ネガティブなんだかポジティブなんだかよく分からない人だ。面倒な性格みたいだが愛嬌はあるし容姿も可愛らしいので、何もしなくても良縁に恵まれそうな予感がする。


「やっぱり変な人ですね、小松谷さん」

「お、喧嘩売ってんのかな?」


 じゅうぶんあんたも変な人の部類に入ると思うよ。


「その、最初は見た目通り怖くて薄情な人かなって思ったんですけど、何だかんだで私のこと見捨てないで説得してくれましたから。口は悪いけど、本当はいい人なんだなって」

「それはどうかな。私は第一目撃者としての義務を果たしただけで、親切心から見捨てなかったわけじゃない」

「うーん。それでも私はいい人だって思います。それにきっと、私は“運”が良かったんです。偶然私を見つけた貴女がここに来てくれたから、私は思いとどまることができた。……さっき運命も運のひとつだって言ってましたけど、それなら小松谷さんと出会えたのは運命ってことになりますよね」

「……悪運じゃないかなぁ」


 乙女チックな思考に当てられてむず痒くなり、がしがしと頭を掻く。この出会いにきっと深い意味はないだろう。この場限りの短い縁だ。明日になればそれぞれの人生をそれぞれのかたちで生きていく。同じ職場で働いていても所属は違うし元々接点は少ない。たまに顔を合わせても挨拶をする程度だろう。そんなもんだ。


「いいから、もう帰ろう。それに危ないから早くこっち側に――」

「あ」

「あ?」


 ぐらりと傾く、有村さんの身体。フェンスを掴んでいた両手は離れて宙を舞い、踏ん張っていた足は重力に逆らえず流されるように落ちていく。飛び降りようとしたのではなくて、気を抜いてバランスを崩したようだ。ぞくりと冷たいものが全身を這う。


「ばっか……!」


 慌てて走り出す。相手を刺激しないよう離れて話しかけていたのが裏目に出てしまった。この距離では絶対に間に合わない。いくら桁外れの運動神経を備えていても、落ちていく彼女には追いつけない。

 普通ならば。


「ああああもうっ、最悪だぁあああああ!」


 ぐらぐらと揺れる天秤が頭の中に出現して思考を停止させてくる。さあどちらかを選べと言わんばかりの天秤を即座に叩き割って、私は限界まで腕を伸ばした。


「とっどっっけぇえええぇぇぇえ!!!!」


 伸ばして、伸ばして、落ちていく彼女の身体を捉え、すかさず腕を巻きつける。ずっしりとした重さに引っ張られそうになるが、持ち上げることは容易い。勢いよく腕を振るって、掴んだものを強引に釣り上げる。冷たいコンクリートに叩きつけるわけにもいかないので、衝撃を和らげるようにゆっくりと座らせて置いてみた。間に合って良かったと安堵の息を吐くと、有村さんのきょとんとした目と自分の目が合って、無言で見つめ合う。


「――――」


 遅れて脳内にけたたましく警報が鳴り響く。やってしまった。だって、悩んでる余裕はなかったんだから。方法は他になかったんだから。きっと、私は間違えていないはずだ。けれど。ああ、それでも。後悔がないとは言い切れない。……できることなら、この“手”だけは使いたくなかったのだ。



『貴女は普段ふにゃふにゃしてるけれど、いざって時に真っ直ぐ手を伸ばせる人よ』



 懐かしい声を思い出す。昔、誰かが誰かをそう評価していたことがあった。あの頃は褒めている気がしなかったけれど、今では随分と支えになっている言葉だ。腹を括ったにも拘らず逃げ出しそうになる自分を諌めてくれる。


「あの、小松谷さん、その」

「うん」

「その腕は……」


 私の腕は、もはや普通の人間の腕とは呼べないものになっている。彼女を捉えるために離れていた分だけ腕は伸び、手の形は完全に消失して一本の『触手』へと変わり果てていた。うにょうにょと蠢く私の身体の一部を見て、彼女は唖然としている。自分でも気味が悪いと思うのだから、他人はそれ以上にこの得体の知れないモノへの嫌悪は大きいだろう。誤魔化すにはもう手遅れだし、対処のしようがない。詰んだ。終わった。もうどうにでもなれー。


「これは! いわゆる! 触手ってやつです!」

「なるほど、初めて見ました。触っていいですか?」

「は? 駄目に決まって……あ、こら、勝手に触るなー!」


 なにやだこの人、嫌悪するどころかむしろ嬉々として触ってくるんですけど!


「伸びてる部分は肌色で、先の方が白っぽくなってますね。わ、感触は凄く柔らかくてふにょふにょしてます」


 目を輝かせながら遠慮なしに触手を揉まれ、わ、わわ、段々と妙な気持ちに――――なってたまるかぁ!


「ぬおおお離せぇえええええ」

「あっ」


 興味津々で触ってくる魔の手から触手を脱出させて、急いで元の状態に戻す。あっという間に変化は終わり、何処から見ても普通の人間の手になる。恐る恐る有村さんを見ると、心なしか残念そうにしていた。予想外の反応をされて何故かこっちが大困惑だ。普通は人間の手が触手になったらもっとこう、あるでしょ。驚かれて気味が悪いとか化物とか言われるのが定番ではなかったか。


「これ、気持ち悪いとか、思わないの?」

「触手のことですか? 不思議だなって思いますけど、気持ち悪くはないです。私、イカとかタコとか好きですし。美味しいですよね」


 私は軟体動物と同じ仲間として見られているんだろうか。さっき熱心に見たり触ったりしてたのって、美味しそうとかそういう意味だったの? 食欲的な? やだ、恐いんだけど。


「有村さんって変わってるね」

「小松谷さんの方がよっぽど変だと思いますよ」

「違いない」


 類は友を呼ぶってやつだ。変人の元には変人が集ってしまうんだろう。


「あーとりあえず、触手のことは絶対に誰にも喋らないでください。お願いします後生ですから」

「わかりました! 必ず秘密にします!」


 心配だなぁ。

 大丈夫かなぁ。


「私、やっぱり飛び降りないでよかったです。生きてれば、こうして素敵な出会いがあるんですから」

「……ああ、そう、良かったね」

「はいっ。これからも仲良くしてください」


 大丈夫じゃないよなぁ。

 綺麗さっぱり忘れて関わらないでくれると助かるんだけど。


「あ! 待ってください、どこに行くんですか」

「おうちに帰る」


 考えることも億劫だ。何をするのも面倒だ。心も体も、もう限界だ。頭を真っ白にして、今日はもう寝る。

 ふらふらと覚束ない足取りで階段まで歩き、段差を見下ろして溜息を吐いた。……階段を使って降りるの面倒だな。いっそ飛び降りようかな。秘密はバレてしまったんだし、彼女に常識外れの身体能力を披露しても問題ない。って、駄目に決まってるだろ。誰が見ているとも限らないんだから、もっと慎重にならないと。早々に楽をすることは諦めて、ゆっくりと一段一段下っていくことにした。

 工場を出ると、私の後ろを黙って付いてきていた有村さんが隣に並んでにっこりと微笑む。え、何。


「あの、良かったら、これから飲みませんか? 安くて美味しい居酒屋さん知ってるんです。今日のお礼に奢りますよ」

「マジで!? 行く行く!」


 即答する。

 疲れているが、酒がタダで飲めると聞いては断れない。社会人として同僚との付き合いも大事なことだ。これも仕事のようなもの。一応この人は年上で先輩だから、せっかくのご好意を無碍にするわけにもいかない。いやー辛いね。大人って辛い。ぐへへ。


「それで、その、できればなんですが、もういちど触手が見てみたいなぁ、なんて」

「お断る」

「うう、残念。そうそう、これから行くお店のたこわさは絶品なんですよ」

「ねえなんで私の手を見ながらその話したの? 念のため言っておくけど私の手は食べれないよ? 人肉だよ?」


 捕食されそうな恐怖を感じて手を後ろに隠すと、彼女は苦笑して視線を私の手から空へずらした。私もつられて同じように見上げる。さっき見た時と変わらない夜空がそこにあって、騒めいていた心が落ち着きを取り戻した。小さい頃から何度も見てきた景色を眺めていると、やはり安心する。


「月が綺麗ですね」

「…………」


 もちろん深い意味はないんだろう。あっても困る。確かに今日は、思わず呟いてしまうほどに綺麗な満月だ。全面に散りばめられた星々も、藍色の夜空も、美しい芸術作品のようで惹きこまれそうになる。彼女もこの空を見て、引き込まれたのかもしれない。夜の闇を照らす仄かな月明りでも、傷ついた心には少し眩し過ぎるから。

 心配になって月に魅入っている彼女の横顔を見ると、真剣な瞳は月の光を浴びて、キラキラと輝いているように見えた。さっきまで死のうとしていた人間の目じゃない。とんでもなく前向きなのか、計り知れないアホなのか。


「月を見てたらパンケーキが食べたくなりました。居酒屋にあるといいんですけど」

「ないんじゃないかなぁ」


 真面目に考えることがアホらしくなった。

 何もかも、きっと、どうにでもなるさ。


 

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