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04_天女は殺戮する(Дева геноцида)

 食卓に並べられた料理を見て、ニフシェの喉は自然と鳴った。


 前菜として登場したサムローモチュー(酸味のきいたスープのこと)を皮切りに、エルーリアの手によって、次から次へと料理が運ばれてくる。メインとなる牛肉の炒め物は、この辺りでは「チャーサイッコー」と呼ばれるものであり、牛肉を魚醤ぎょしょうに漬け込んだものだ。特に、ヴィジャヤナガール州の家庭では年月を経た魚醤が好まれるらしく、ニフシェが料理を待つこの小さな食堂は、たちまちにしてこのチャーサイッコーの匂いに包まれた。それに続いて「アモック」と呼ばれる、ココナッツミルク、香辛料そして野菜を混ぜて作ったルーに、炊いたバーイが運ばれてくる。その傍らには、薄く切ったレモンの添えられた、空芯菜くうしんさいの炒め物が控えていた。


「どうぞ、旅の方。こう暑くては、食が進まぬかもしれませんが……」


 最後に、水出しのコーヒーが銀のコップに注ぎこまれる。ニフシェにとっては、全く想像もしていなかった歓待ぶりだった。


「そんなことは……いただきます」


 ニフシェは遠慮しない性質たちだった。加えて、旅の最中はまともな食事にありつけていない。他人の家とはいえど、こうして椅子に座って料理を食べることが、ニフシェには贅沢なことに思われた。


 肉の中に浸み込んだ魚醤が、口いっぱいに広がるのを感じながら、ニフシェはふと顔を上げた。棚に立て掛けられた線香の束に遮られているが、壁には古いレリーフが飾られている。レリーフには、銀色の長い髪を腰までなびかせ、左手に錆び付いた大剣を構えている、少女の姿が描かれていた。


殺戮天女ディエヴァ・ウヴィーツァ……」


 ニフシェは呟いた。殺戮天女とは、今から千二百年ほど前に起きた戦争で、破壊のかぎりを尽くした伝説的な魔法使いの通称である。戦の中に生き、戦の中に死んだ彼女のレリーフは、火の守り神として、厨房や料理に飾られることが多い。


「ええ……わが郷土の英雄です」


 ニフシェの正面に腰を下ろすと、エルーリアもまたレリーフを見つめた。エルーリアの視線は、殺戮天女の縫合された口元に注がれている。


「あの口元は誇張のしすぎですね――」

「ええ。彼女は喋ることができなかったわけではないはず」


 一定の間隔で床に杖を打ちながら、エルーリアが答える。


「ただ、口を開くのが苦しかっただけ――それも、口元までを覆う魔術の刺青タトゥーのせいで」

「よくご存じですね……」


 騎士団に所属している人間でもないかぎり、殺戮天女が口を聞かなかった本当の理由を知っている人はいない――そんなニフシェのうろんげな視線に気づいたのか、エルーリアがばつ悪げに肩をすくめてみせる。


「悪く思わないでください、ニフシェ。あなたを驚かせるつもりはありませんでした。ただ、あなたは騎士だとのお話だったので、つい先回りして話してみたくなったのです」

「けれど、今の話は一般にはあまり知られていないはず。どこでその話を?」

「祖母が話してくれたものです」


 空芯菜の炒め物を小皿に取りながら、エルーリアは話を続ける。


「私の祖母は昔、騎士団に入っていたので……。準騎士で終わってしまったのですが、祖母はずっと、私に騎士団の自慢をしていました。今の話も、祖母から伝え聞いた逸話です」


 そう言うと、エルーリアはニフシェに向かって微笑みかけた。


「そうだったんですか……」


 と、ニフシェも微笑みを返したが、心の中ではずっとこう思っていた、


(それは嘘だ)


 と。

 ”麒麟”の魔法使いであるニフシェは、微妙な声音の変化も聞き分けることができる。そんなニフシェにとって、他人の言葉の真偽を聞き分けることなど、造作もないことだった。


(それにしても、)


 眠い目をこすりながら、ニフシェは考える。なぜエルーリアは、嘘をつく必要があるのか。他愛もない嘘ならば良いのだが、エルーリアの青い瞳は真剣そのものだ。まるで、ニフシェを試しているかのようである。だとすれば、何のために?


 ニフシェには、エルーリアの言葉が嘘だと分かる。しかし、どうして嘘をついたのかという、その理由までは分からない。”麒麟”の能力に、相手の心を読みとる力はないからだ。

 それにニフシェの能力は、何が嘘で、何が本当なのかまでは教えてくれない。たとえ


「私の祖母は亡くなりました」


 という言葉が嘘だったとしても、真実は


「亡くなったのは祖父」


 なのかもしれないし、


「祖母は亡くなっていない」


 なのかもしれない。嘘だと気付けたところで、それが何ごとも明らかにしないことは多い。

 鳴り響いた雷に合わせ、コップに注がれたコーヒーの表面が震える。雨脚は強く、このいびつな建物を押し潰さんばかりだった。


「ひどい雨ですね……」

「ええ。ですが、森の天気とは案外読みやすいものです」


 エルーリアは食欲がないようだった。先ほどから食べ物は小皿に盛るものの、口をつけるのはコーヒーだけである。


「そうですか?」

「ええ。だからこそ、私と子どもたちはこうして生きながらえているわけです。――都では、さぞかし多くの人が死んだことでしょう」

「ええ……」


 ――このとき、ニフシェの脳内を、ある人物が横切った。そのイメージはあまりにも強烈だったために、それが白昼夢なのか現実なのか、ニフシェは一瞬、判断に迷うほどだった。記憶が作り出した暗闇の中を全力で駆け抜けながら、けたたましく笑うある人物――


(忘れよう)


 目を固くつぶると、ニフシェは全身を駆け巡った今の悪寒を忘れようとした。


(忘れるんだ……!)

「――さだめし、都も混乱したはず」


 コーヒーをすすりながら、エルーリアが相槌を打った。


「しかし、奇妙だとは思いませんか? 一方では誰かが死に、一方では生きている。それも、他ならぬこの自分自身が――」


 このとき、ニフシェは眠気に襲われ、欠伸あくびを噛み殺していた。エルーリアとの会話さえも、ニフシェは気が散ってしまうほどだった。どうしてこんなにも眠いのか、ほかならぬニフシェ自身が不思議なくらいだった。しかし、今のエルーリアの発言が気になったニフシェは、背筋を伸ばしてエルーリアに訊き返す。


「……どういう意味です?」

「死んだ人の中には、根っからの善人もいれば、根っからの悪人もいたことでしょう」


 背もたれに背を預けると、エルーリアは腕を組んだ。


「自分が悪人だったとして、もし善人だと思っていた人が雨で死んだら? ニフシェ、それには、どんな意味があると思いまか? あるいは少なくとも、その悪人はどう考えるでしょう?」

「意味、って――」


 ニフシェは鼻白んだ。


「雨はあまねく、どこにでも降りますよ?」

「ニフシェ、雨に降られて死ぬ人もいれば、降られずに生き残った人だっているわけです。屋根のあるところにいるか、そうでないかだけで、生死が分かれてしまった。……これは、運命スデュバと呼んでも差支えのないものではないですか?」


 牛肉を噛みくだしながら、ニフシェはエルーリアの更なる言葉を待った。


「だから、こう考えることができるわけです。自分が生きているのは、自分にとっての運命であり、神から与えられた使命なのだ……と。そう考えれば……どうしました?」

「ま、待ってください……」


 咳き込みながら、ニフシェはエルーリアの言葉を遮る。


「エルーリア、どうして生きているボクたちの方ばかりに、使命があると考えるのです? もしかしたらボクたちは、死に損なっただけかもしれないじゃないですか?」

「――死んだ方がマシ、ということですか?」

「いや、そういうことではなくて、死んでしまった人たちにも、居場所があってしかるべきだと思うんですよ」


 エルーリアが目を細めた。


「ニフシェ、こう言うではありませんか、『なんじ、眼前のせいある者を差し置きて、死せる者を語るなり』と」


 『トマスによる福音書』、第五十二節。


「それなら、『しかばねを明らむる者、現世うつしよかざるなり』です。死んだ人たちを見送ったボクたちもまた、この世に相応ふさわしくない、死すべき運命にある人間なんですよ」


 『トマスによる福音書』、第五十六節。


「だけど、それで良いではないですか。生まれたときに『私は生まれました』なんて言わないでしょう? それに、死ぬときだって『私は死にます』なんて言わない。ボクたちは誰かに生を見取られて、誰かに死を見送られるんです。生と死とは繋がっていて、生者も死者も……生者も死者も……楽園バルべーローでは一つに調和するんです」


 言いながら、ニフシェはあえいだ。眠気のせいで、息が続かなかったのだ。


「ニフシェ、『死すべき者にて、生にあずかる者なきなり』と言うではないですか」


 『トマスによる福音書』、第十一節。


「まるで、永遠に生きなければならないことが運命づけられているようじゃないですか……!」


 ニフシェの声が、思わず大きくなった。しかし、これはエルーリアとの論争にかっとなったわけではなく、ただ眠気を追い払おうとしていたためだった。


 しかし、エルーリアはそう感じてはいないようだった。怪訝けげんな顔をしているエルーリアを見て、ニフシェもはっとなる。


「す、すみません。口がすぎました」

「――ニフシェ、どうやら私は、あなたとは意見が合いそうにありません」


 うろたえるニフシェを尻目に、エルーリアは冷徹に言ってのけた。


「ボクは別に、アナタの信条をないがしろにしたいわけでは――」

「本当に残念です」


 慌てて詫びの言葉を口にしながら、ニフシェは自分の記憶を辿る。しかし、どの言葉がエルーリアを逆なでしたのか、ニフシェは見当がつかなかった。


「ときに……ニフシェ。あなたの本当の名前はなんですか?」

「ニフシェ・ダカラーです。……えっ?」


 自分の耳に入ってきた言葉を聞いて、ニフシェは絶句する。

【Колонка】

・ 殺戮天女(Дева Убийства)【固有名詞】

 ”シャンタイアクティ四天女”の一人。本名はチェルーリア・クワディナラ・チュエ・キサンター(Ыерлиа Ыуадинара Ыуе Ыуисангтах)。千二百年ほど昔に勃発した第一次 即位灌頂バプテスマ戦争で、北朝側の巫皇を務めた人物。ただし、巫皇の地位は生前に得たものではなく、死後に追贈されたものである。属は不明だが、一説に”鶏”。

 元は黒人ネグロイドであったものの、人体強化のための白い魔術刺青を全身に彫り込んだために、その全身は遠目からでもはっきりと分かるくらい、白く青ざめて見えたとされる。また、口元のぎりぎりまで刺青を入れたために、口角の筋肉を動かすと全身に激痛が走ったため、ほとんど口を聞かなかったという伝承が残っている。晩年は刺青に含まれるコバルトのために金属中毒となり、脚を動かすことが困難となったため、剣を振るって真空を作り出し、その真空に自らの身体を滑り込ませることによって移動したという。生まれてから亡くなるまでの十九年の間に殺戮した人数は、のべ十七万人とも言われており、特に、その殺戮に対する異常な執着ゆえに、シャンタイアクティを追放されてからは、敵も味方も見境なく殺戮して回り、シャンタイアクティ西部がその後二百年にもわたって荒廃するきっかけを作ったともされている。記録に残っているだけでも巫皇3人、使徒騎士18人、聖騎士73人、準騎士166人を殺害している。

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