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――彼、見出せば(すなわ)(おそ)れん。(おそ)るれば(すなわ)ち驚かん。(しか)して彼は万物を()る者たらん。(彼は見出せば動揺するであろう。動揺すれば驚くであろう。そして、彼はすべてを支配するだろう。)【『トマスによる福音書』、第2節】

 気付いたときには、ニフシェは食卓に肘をついて座っていた。場面を理解する前に、両肩を誰かに叩かれる。振り返ってみると、そこでは姉が――ニフリートが――、ニフシェを見下ろしていた。


「起きたか? おはよう」


 ニフリートは口元に笑みを忍ばせていたが、目は笑っていなかった。

 返事が思い浮かばず、ニフシェとニフリートは、しばらく互いに見つめ合っていた。家の向こう側からは、潮騒の音が聞こえてくる。


「寝起きが良いと、得した気分になるよな? 単純なものさ、人間なんて……」


 妹の肩から手を離すと、ニフリートはニフシェの正面に座った。

 海辺からは、冷たい風が吹き寄せてくる。


「……どうした? せめて、何か言えよ?」


 脚を組んだ姿勢で、ニフリートは左の手のひらを右手の親指でこすっている。


「喋ることさえできないのならば……後はもう、ボクを殺すしかないだろう? ――もっとも、ボクを殺すためだけに、言葉を喪った奴だっているけれど」

「ニフリート、ボクは死んだんだ」


 ニフシェの言葉に、ニフリートは反応しなかった。相変わらずニフリートは、左の手のひらを右手の親指でこするだけだった。


「ヘマをやらかしたんだ」


 それでもニフシェは、語らずにはいられなかった。こうして語っていること自体が、自分が自分であることの証明のように、今のニフリートには思えたからだ。今まさに、自分は死にかけている。他者からのリアクションがあれば、それは自分が生きていることの証明になる。――この場合、他者はニフリートだって構わない。


「脇腹を撃たれて、血が止まらない。もう助からないんだ――」

「なんていう名前だったかな、ソイツ? 死んでからは記憶が曖昧で……たしか、れ、レテ……?」

「ニフリート!」


 ニフシェは、ついに声を荒げた。ニフリートは喋るのをやめ、ニフシェを見つめる。しかしその見つめ方は、ニフシェが怒り出すのを待ち構えていた様子でもなければ、自分の語りに没頭しているうちに、急に呼び覚まされたかのような様子でもなかった。まるで、目線を動かしている中で、偶然妹が視界に映り込んできたとでも言わんばかりの、どこか遠くを見るような見つめ方だった。


「ニフシェ、悪いけれど、死はボク自身の分だけで満足しているのさ」


 肩で息をしていたニフシェは、今のニフリートの言葉の裏に隠されている皮肉の、半分も読み取ることができなかった。

 しかし、ニフリートは目を見開いたまま、言葉を続ける。


「怖い顔をするなよ。ボクも精いっぱい、キミの死を悲しんでやるよ。ボクは不器用だけれど、そのくらいは頑張ってやってみようと思う。それに、ここはいい場所だ。まったくキミにおあつらえ向きの場所だと、ボクは思うよ。まぶしい日差し、透き通った海……今日は曇っているけれど、いつか拝める時も来るさ」


 ニフリートの話を聞く代わりに、ニフシェは食卓に視線を落としたり、あるいは天井を見上げたりした。ニフリートが、ニフシェの事情に関心を持っていないことは明らかだった。それでもニフリートは、妹の話を全て聞いていたのだ。そして、妹を傷つけることのできる絶好の機会を、淡々と待っている。もしニフリートが率直な性格ならば、


「なぁ、ニフシェ、キミが死にそうな話になんか、興味がないんだよ」


 と言ったことだろう。しかしニフリートは、そんな「野暮ったい」振舞いは決して行わない。その代わりニフリートは、「ニフシェの死を悲しんでやる」と言っている。それは、貯水槽の汚水にまみれ、一人寂しく死ぬであろうニフシェに対する当てつけだった。そして、「誰かに憐れんでもらいたい」というニフシェの無意識の感情を暴き立て、それをあからさまに「悲しんでやる」と言って、ニフシェの感情はうぬぼれに過ぎない、と断罪しているのだ。今のニフシェにできることは、辛抱することだけだった。怒りを露わにしてしまえば、それはニフリートの思うつぼだからだ。

 だが、この「怒りを表に出さない」というニフシェの態度さえもが、ニフリートに仕組まれたものだったとしたら? 「ニフシェ、ここの海が、お前の健気(けなげ)さを認めてくれるほどの広さを持っていると良いな」などと、ニフリートが言い出したりしたら?

 ニフシェは、気が狂いそうだった。


「なぁ、ニフシェ。キミの人生を、ボクが代わってやろうか?」


 唐突なニフリートの言葉に、ニフシェは一瞬、怒りを忘れた。


「――え?」

「キミの代わりにボクが生きてやろう、って言っているんだよ。……二度も言わせるなよな。自分でも野暮ったすぎて、口が腐ると思うくらいなんだから」


 自分の生を代わる?

 ニフリートが?


 ニフシェは自問自答した。やはりニフリートは、自分の話など聞いていなかったのだろうか? 自分は爆風で重傷を負った挙げ句、水槽の中へ転落してしまったというのに。


「キミよりは良くキミの人生を生きられると思うよ、ボクは……?」


 妹の心中を見抜いたかのように、ニフリートは言った。それから、どういうわけかニフリートは、肩を震わせて笑いはじめた。


「『良く生きる』か……フフフ……ハハハ……面白いな……ハハハ……。まぁ、早晩化けの皮ははがれると思う。それでも、丁寧には生きていけると思うよ。ちゃんとおべんちゃらとか言ってさ。ニフシェ、ボクはキミみたいに、誰かに支えられずとも生きていけるから……」


 最後の言葉が、ニフシェの心をえぐった。


「どうしてお前なんかに――」


 椅子から立ち上がり、姉のことをにらみつけた矢先、ニフシェは自分の心が重心を喪うかのような、不思議な感覚を味わった。宙に投げ出されたかのような感覚の後、海風のように冷たい思念が、ニフシェの心の隙間に入り込んでくる。


――アンタは私なしでは生きていけないのよ……!


 その思念は、またしてもエルーリアの言葉を、ニフシェの脳裏に反復させた。

 だが、この言葉の意味に、そして言葉に隠されたエルーリアの欺瞞に、ニフシェは初めて気付いたのだった。


「どうした?」


 立ち尽くしている妹の姿を見て、珍しくニフリートが自分から声をかけた。


「黙るのはよせよ。しらけるだろ――?」

「ニフリート。ボクはやっぱり、キミが必要なんかじゃないよ」


 一瞬だけニフリートは、その場で凍りついたかのようだった。だがすぐに椅子から立ち上がると、ニフシェの肩に手を添えた。


「ニフシェ、良いんだよ。誰も一人では生きていけないんだ。強者を気取るのはよせ。見ていられないだけだから……」

「それはさ……ニフリート……」


 肩に添えられた姉の手を払いのけると、ニフシェはその手首を強く握りしめ、ニフリートを正面に見据えて言った。


「キミも同じことだろう?」


 ニフリートは、ただじっと妹のことを見つめている。


「それどころか、ニフリート、ボクがキミを必要としている以上に……キミがボクを必要としているんじゃないか?」


 これが、ニフシェの得た答えだった。ニフシェは尋ねるようにしてそう言ってみたが、言葉として口に出したお蔭で、ニフシェの中でその言葉は確信へと変わっていった。


「そう……そうなんだよ……。ボクがキミを恐怖しようが、あるいは他の感情を抱こうが……本当はキミには、そんなことはどうでもいいことなんだ。大切なのは、ボクがキミのことについて考えることで、キミに居場所を与えてやることなんだから。そうじゃないか? ……いや、答えてくれなくていい……!」


 衝動的に姉に身体を密着させると、ニフシェは背中に腕を回し、ニフリートの全身を抱きしめた。


「だから……ニフリート……キミのことを恐れてやるよ。キミの気が済むまで、ボクの一生涯を、キミに捧げるのさ。……どうかな? 良い人生じゃないか?」


 姉の身体からゆっくりと離れると、ニフシェはニフリートのことを、まっすぐ見据える。“生きていて”初めて、ニフリートに言いたいことの全てを言い切ったような気がして、ニフシェは興奮の只中で静かに震えていた。

 永遠とも思えるほどの長い沈黙の後、ニフリートは踵を返し、窓のそばで立ち止まった。そして、


「良い人生かもな」


 と言った。姉が口にしたのはたったそれだけだったが、ニフシェにはそれで十分だった。

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