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11_遠い昔(давным-давно)

――(なんじ)眼前のものを知れ。【『トマスによる福音書』、第5節】

(ヨルサン、だって……?!)


 賞状に刻まれた“Жорсюнг Тхе Xиангтхиацти”の文字を、ニフシェは食い入るように見つめる。ニフシェはヨルサンのことを知っている。知りすぎていると言っても良いくらいだ。なぜなら巫皇(ジリッツァ)・ヨルサンは、ニフシェの曾祖母に当たる人物だからだ。


(でも、どうして……?)


 ヨルサンが巫皇の座に就いていたのは、今から八十年近くも昔のことだ。賞状の言葉を信じるとすれば、エルーリアは百歳近いということになる。


――エヂオ!


 エルーリアの声を聞いたような気がして、ニフシェは身震いした。エルーリアは、エヂオのことを「あなた」と呼ぶ。あの怪物が、彼女の伴侶であることは間違いない。だとしたら、この賞状に書かれている伴侶とは?


(いや……今はやめよう)


 包帯を巻いた左手のうずきが、ニフシェを現実へと引き戻した。今は、余計な穿鑿せんさくをしている場合ではなかった。荷物を奪い返し、館から逃げ出すことが先決だった。


 幸いなことに、次の手がかりは、エルーリア自身が明らかにしてくれていた。次の目的地は、鹹水工場である。ドーラは鹹水工場に行きつつ、ニフシェの荷物を廃棄するつもりなのだ。


(そうはさせない)


 そう自分自身に言い聞かせると、ニフシェはエルーリアの部屋を抜け出した。



――……



 扉という扉、廊下という廊下をくぐり抜けた先で、ついにニフシェは、別の建物へと繋がる通路を発見した。


「ここか……!」


 そう口にすると、ニフシェは目を細めた。鹹水工場への通用口は開け放たれており、周囲は苔に覆われていた。もう何十年も前から、この工場は打ち棄てられていたのだろう。


 通路を覆うトタンの屋根は朽ち果てており、ところどころに空いた穴から、”黒い雨”が吹き込んでいる。ニフシェは息を止め、服の袖で頭を庇うと、一目散に通路を駆け抜けた。


 駆け込む途中、ニフシェはトタンの裂け目から、通路の外をかいま見ることができた。密林の木々は雨に揺さぶられてせわしなく動いており、その木々の間を抜け、一本の川がうねっていた。川はちょうど、この通路の真下をくぐり抜けている。


 建物に駆け込んだニフシェを、外からの稲光が照らした。そのとき、空虚な部屋の一角が、不自然にきらめいたことにニフシェは気付いた。


(何だ?)


 すでにニフシェの目は、暗闇に慣れていた。目を凝らしてみれば、木製の台の上に、黄銅でできたプレートがはめ込まれている。それは錆付いた、この工場の見取り図だった。


 プレートを凝視したニフシェは、ほどなくして、「貯水槽」と書かれた箇所だけが、汚れていないことに気付いた。誰かが出入りのたびに、この「貯水槽」の箇所を指でなぞっているのだろう。


(行こう――)


 プレートの表面を服の袖でぬぐい去ると、ニフシェは「貯水槽」へと向かった。



――……



 「貯水槽」のエリアは、文字どおり複数の貯水槽が立ち並んでいる、広大な部屋だった。貯水槽は互いに連結されており、張り巡らされた水路は、外へも通じているようだった。


「あった……!」


 部屋へ入ってすぐに、ニフシェは目当てのものを発見した。――ニフシェの背嚢ランドセルと剣とが、さび付いた鉄の柵にぶら下がっていた。


(ドーラはどこだ?)


 目を細めると、ニフシェは空間全体を見渡した。エルーリアの話では、荷物の廃棄を任されているのはドーラのはずだ。エルーリアに忠実なドーラは、間違いなく荷物を廃棄しようと努めるだろう。


 にもかかわらず、ニフシェの荷物は、貯水槽の手前にある鉄柵に、無造作に立てかけられているだけだった。ニフシェは罠を疑ったが、周囲には自分以外の気配はなく、荷物の周辺に透明なワイヤーが張られているわけでもないようだった。


(どうする?)


 そう自問自答しながらも、ニフシェは息を殺し、着実に荷物までの距離を詰めていった。荷物の周りに罠はない、周囲に人の影もない――となると、考えられる可能性は一つ、「敵はニフシェの背後に潜んでいる」ということだった。罠がないことを訝しみ、躊躇っているニフシェの隙を、ドーラは虎視眈々と狙っているのだろう。いずれにしても、動くのをやめることは得策でないのだ。


 荷物に近づく間、忘れようと努めていたはずのことを、ニフシェは知らず知らずのうちに考えはじめていた。クロゼットの中で盗み聞きした、エルーリアの言葉である。


 ――アンタは私なしでは生きていけないのよ……!


 クロゼットに潜むニフシェの前で、エルーリアは伴侶に向かってそう叫んでいた。この叫び声は、なぜかニフシェの耳の奥で、ずっと反響を続けていた。その度にニフシェは、自分の気がそぞろになり、心臓の鼓動が不自然に高鳴っていることに気付いていた。


 そして、このような気持ちになる理由を、ニフシェは知っていた。……この感覚は、嘘を見抜いたときの感覚と同じなのだ。だがいったい、何の嘘を? それがニフシェには分からない。エルーリアの言葉と、気持ちの不可解な高ぶり。……それになぜか、ニフシェの瞼の裏では、終始サーミアットの白い家がちらつくのだ。


 考えあぐねているうちに、ニフシェは荷物のところまで近づいた。ひったくるように剣を掴むと、その一閃で背嚢(ランドセル)を縛っていた紐を切り裂く。


「よし……?」


 背嚢(ランドセル)を背負い、ニフシェはすかさず逃げ出そうとする。しかしその瞬間、背嚢(ランドセル)の蓋がひとりでに開いたかと思うと、中から黒い塊が飛び出してきた。


「――うわっ?!」


 ニフシェは思わず悲鳴を上げる。飛び出したのは、黒いドブネズミだったからだ。


「ああ、もう……」


 安堵と嫌悪とが心の中でないまぜになったまま、ニフシェは悪態をつく。しかし、ニフシェがドブネズミを手で追い払おうとした矢先、


「苦しめ」


 という低い声が、ニフシェの耳に響いた、


(え……?)


 その声が、ドブネズミから発せられたと分かった時にはもう、ドブネズミの自爆に、ニフシェは巻き込まれていた。



――……



「ああ……どうしよう?!」


 自らが引き起こした結果の重大さを思い知り、ドーラは震え声を上げた。


 荷物を囮にし、近づいてきたニフシェをドブネズミで脅す――これがドーラの計画だった。ドブネズミはエルーリアから与えられたもので、ネズミの身体に描かれている魔方陣を走らせれば、その身体の自由を奪い、好きな時に爆発させることができた。


 しかし、生体爆弾の破壊力は、ドーラの予想以上だった。そしてあろうことか、爆発の衝撃で千切れた鉄柵の一部が、ニフシェの脇腹に命中してしまったのだ。ドーラの目の前で、ニフシェはわき腹に刺さった鉄パイプに悶え、そのまま床に倒れ伏し、動かなくなる。


 エルーリア院長から、ニフシェは殺さないよう厳命されている。このままでは、ドーラは言いつけを破ったことになる。


「おねえちゃん、おねえちゃん?! 大丈夫?!」


 自分で仕掛けた罠であることなどすっかり忘れ、完全に取り乱した状態で、ドーラはニフシェに駆け寄る。


 このときを、ニフシェは待っていた。



――……



「お姉――」


 ドーラが全てを言い終わらないうちに、ニフシェは右腕を振るい、その切っ先をドーラの喉にうならせた。ドーラの首は弾け、頭は皮一枚でつながったまま、後ろにだらりと垂れ下がる。


 惰性でしゃがみ込もうとしたドーラの身体は、重心が不安定になったせいで、そのまま仰向けに倒れた。心臓の脈打つリズムに合わせ、ドーラの首の裂け目から、血が噴水のように規則的に吹き上がる。


「ハァ……ハァ……」


 激痛でもだえたくなる衝動をこらえ、ニフシェは、ドーラが近づいてくるのを待っていた。そして、ドーラが自分の間合いまで入ってくるのを見計らい、その首めがけて長剣を振るったのである。


(ダメだ――)


 だが、それがニフシェのできた限界だった。めまいを感じ、ニフシェはよろめく。ふらついた拍子に、(ブーツ)の踵が自分の血だまりを薙いだ。


 倒れるのを我慢しようと、ニフシェはとっさに手すりに手をついた。しかし、それがいけなかった。


「あっ――」


 思わず声を上げたときにはもう、ニフシェの身体は水槽に投げ出されていた。錆び、もろくなっていた手すりは、ニフシェの体重を支えきることができなかったのだ。


(ごめん、ミーシャ……!)


 ――どこか遠くにいるであろう、自分の”相棒”の名前を念じると、ニフシェは水槽の中へ、渦巻く水の中へと没していく。濁りきった水の中で、ニフシェの意識は途絶えた。

【Колонка】

・ ヨルサン・トレ=シャンタイアクティ(Жорсюнг Тхе Xиангтхиацти)

 属は”極楽鳥(Райская птица)”。シャンタイアクティの巫皇(ジリッツァ)にして、ニフシェの曾祖母に当たる人物。

 当時の三ラァ家のうち、ルゥ=ラァ家とホークハイエスト=ラァ家の子女は幼少であり、まだ騎士団にさえ入門していなかったため、弱冠11歳であったにも関わらず、ヨルサンは巫皇(ジリッツァ)に就任した。そのため、巫皇(ジリッツァ)としての在位は9年と8か月にも及び、歴代の巫皇(ジリッツァ)の中でも長期の部類に入る反面、巫皇(ジリッツァ)に推挙された時点ではまだ準騎士であったために、騎士昇叙を受けることなく使徒騎士となり、その3日後に巫皇(ジリッツァ)になるという、異例の対応が行われた。

 ヨルサンは非常に聡明であったものの、気難しい面も多かった、と、当時の記録では伝えられている。また、極度の偏食家としても知られており、巫皇(ジリッツァ)に就任して以降は、炒った空豆しか食べなかったという。

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