第9話 ヒロインは逃げ出してくれないらしい
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「ありがとうございました。」
村役場の応接室に戻ってきている。目の前では市子さんが頭を下げている。
「いえいえ。お役に立てたなら良かったです。」
「うちの母は外の人間ですのでテレビが来たら良くなると思い込んでいたみたいです。那須さまには解ってらっしゃると思いますが、この村には隠したいことも沢山あってあまりお客さんも来てほしくないんです。」
いきなり様付けに豹変されてこっちが困惑するよ。
「犬神憑きとこの面のキズとまつたけのことですか?」
あんなに堂々と生えているまつたけがこの村の独占的に出荷できているのには訳があるのだ。
「やっぱり解ってらっしゃるんですね。」
市子さんはまるで新しい飼い主が現われた子犬のような表情でこちらを見てくる。
いやもうタマだけでお腹いっぱいだから。
「どういうことよシン。私には全く解らないんだけど。」
少しは自分で考えようよ瑤子さん。
「瑤子さん、秘密は秘密で置いておきませんか。別に殺人事件と直接関係無いと思うのですが。」
「直接って、間接的には関係あるということよね。」
そっとしておいて欲しいと言っているのにさらに突っ込んでくる。こういうところは警察官らしいな。少なくとも隣で笑って見ている刑事局長よりは。
「この村の雰囲気を利用した殺人が行なわれる可能性があるということですよ。『たたりじゃ』『たたりじゃ』と脅かされた中でまた殺人事件が何件も起きたらどうなると思います?」
こちらに犬神のタマがいるがぎり、犬神憑きの呪いで人が死ぬことは無い。
「テレビ局のスタッフは村人が何かをしていると思うわね。」
少なくとも疑心暗鬼には陥るだろう。浮き足立って各個人が勝手な行動をとりだしたら、アリバイなんてあって無きが如しになってしまう。
「だから志保さんに逃げ出して欲しかったんですけどね。どうです怖くなってきましたか?」
「こ、怖いわけ無いでしょ。」
まだ意地を張り続けるつもりらしい。
「ちなみにこの台本の×印は羽根ディレクターの仕業でした。志保さん。なにか心当たりがありそうですね。」
台本を再び開けてみせる。あの部屋に入った人間の体臭と羽根ディレクターのそれが同じだったのだ。
「まあね。前社長の子飼いのディレクターだったのよ。少しくらいの嫌がらせは覚悟していたわ。でも何故、彼はこの村の人間じゃないでしょ。」
一星テレビの前社長は志保さんを恨んで散々嫌がらせをした挙句、社長をクビになっている。志保さんは知らないことだろうが山田社長が各界にスポンサーとして圧力をかけて、彼の映像を使わないように働きかけており、独立したがすぐに倒産したという話だ。
「志保さんに対する警告のつもりなんでしょう。そんなことをしても無駄なのに。それに市子さんが反応してない通りこの×印とこっちの面のメ印は無関係なんですよ。そうですよね。」
話のついでに種明かしをする。こちらは話しても問題は無いだろう。
「ええ。大っぴらにはしてないんだけど、この村は隠れキリシタンの里なの。この×印は均等でしょ。でも、こっちの面のキズ跡を45度回転させると十字架になるのよ。はっきり言って真似をしたニセモノだわ。」
市子さんが応接室の面を取り上げ、左に45度回転させるとキレイな十字架が現われた。隠れキリシタンは信仰の対象にいろんなものを選んでいたという。絵画の中に隠された十字架だったり、観音菩薩に見立てたマリア様だったり。
「じゃあ、羽根ディレクターが殺人事件の犯人?」
おそらく現場の吊り橋に行っても無駄だろう。彼もその場所を通ってきて村に入ってきているから、臭いが残っていても不思議じゃない。
「さあ、そこまではわかりません。志保さんに対して『興和製作の内情を探ろうとするな』と警告を出しているのか。それともこのゴタゴタで殺そうと考えているのかはわかりません。」
どんな展開になっても僕が守らなくてはいけないのには変わりは無い。志保さんと瑤子さんとよーちゃんの3人なのだ。他にも殺されそうな人物が数人いるのに犯人かもしれない羽根ディレクターを見張ることさえできない。
「どうです。怖くなってきましたか?」
「またそんなことを言って。私が逃げ出すと思っているの?」
これだけ言っているのに解ってくれないらしい。
「仕方が無いな。じゃあ今晩は瑤子さんと一緒に寝てください。」
「嫌よ。私はシンと一緒がいいの。」
今度は瑤子さんがゴネ出す。全く瑤子さんは警察官でしょうが。事件を未然に防ぐのが瑤子さんの義務なんだって。
☆
市子さんによると村じゅうに犬神憑きの新しい主人が僕であることが伝わっているということだった。おそらく犬噛家と同等の権限を持つことになるのだろう。
真神家に戻ると撮影スタッフは山寺に移動しており、メイク担当の吉長さんが待ち構えていた。これから志保さんの出番らしい。
「やっぱり、綺麗ね。女優さんには負けるわ。」
メイクが出来上がるに従って瑤子さんから溜息が漏れ出す。
「どうしたの瑤子さん。いきなり負け犬ぶって、志保さんの魔の手から僕を守ってくれるんでしょ。」
「それよ。志保さん、志保さんって随分親しげね。」
僕が志保さんと呼ぶのが気に入らないらしい。
「なんだそんなことか。瑤子のほうが親しいだろ。」
瑤子さんを抱き寄せる。だが肩にタマが乗っていてイマイチ決まらない。
「ほらそこの護衛役のバカっぷる。いくわよ。」
メイクが終わり着替えも済んだ志保さんが邪魔をするように声を掛けてきた。