敵襲
Ⅰ
「てきしゅー!」
地下空間に響き渡ったのは、そんな可愛らしい警鐘だった。
「敵襲って言ったのか? いま」
「あぁ、どうやらそうみたいだな」
そう言った蒼夜の表情は険しい。隣にいる夕も眉を顰めている。
その様子からして、単なる子供の悪戯ではないらしい。
「とにかく地上に戻るぞ」
にわかに変化する二人の雰囲気に、ただならぬ空気を感じつつ、俺達は地上へ続く階段を駆け上る。地上に出ると、すぐに子供達が出迎えてくれ、俺達の手を引いて食堂まで一息に駆け抜ける。
そうして訪れた食堂には、一人の見知らぬ吸血鬼がいた。彼女は傷だらけの身体を抱き締めるようにして、震えている。
状況から見て、彼女が敵襲を知らせた伝令だろう。
「どこが襲われたの?」
「西の廃工場よ」
「……あそこか」
夕の問いに、虹子さんは難しい表情をしたまま答えた。
「廃工場……」
言葉に出して記憶を掘り返して見ると、たしかにあった。
ここからそう遠くない位置に、廃棄されて久しい工場がある。それも結構な敷地面積を誇る大きな所だった。
老朽化が進んでいて危険だから近寄るなと、小学生のころから耳にタコができるほど聞かされていた場所だ。まさか、そこが吸血鬼の根城になっていたとはな。
先生や親の言いつけを守る、よい子で良かった。
「敵の数は? どれだけいる」
「この子の話だと、拠点にいる子達とほぼ同数らしいわ」
「チッ……完全に潰しに来てるな」
聖職者たちの規模は知るところではないが、ほぼ同数、同程度の戦力を用意したと言うのなら、敵の目的は殲滅に違いない。人員と装備の準備を考えると、計画的な行動だと言える。
「……わかった」
戦況を聞いて数秒ほど沈黙した後、夕はそう言って歩き出す。
その足音は強く響き、俺の目の前で止まった。
「帳くん。いまは少しでも人手が欲しい。戦える戦力が欲しい。だから――」
「あぁ、わかった。一緒に戦う」
先の言葉を聞くことなく、俺はそれを了承した。
ここに居させてもらっている。ここに属させてもらっている。ならば当然、家賃を払わなくてはならない。それにいずれこうなることは分かっていた
「……ありがとう、帳くん」
にっ、と夕は笑った。
「本当に連れて行くのか? そいつはまだもう片方――血創だって覚えてねーんだぞ」
「それは現場に向かいながら説明するよ。それに血創が使えなくても、そうそう簡単に帳くんはやられない」
「どうしてそう言い切れる」
「蒼夜も気付いているでしょ? 単純な身体能力に限れば、私達より優れているって」
「……けっ」
すこし不機嫌そうな顔をしたが、しかし蒼夜は否定しようとはしなかった。
「決まりだね。それじゃあすぐに――」
「あ、あの!」
今まで震えていた傷だらけの吸血鬼。
彼女は絞り出すような、精一杯の小さな声で言う。
「私は、なにも……出来ませんでした。だから! お願いします。みんなを、助けてください」
「うん、大丈夫だよ。私達に任せて」
声も上手く出せないほど、心に募った不安や恐怖。それらを優しく和らげるように、夕は微笑んだ。大丈夫だ、任せろ。その言葉はきっと、傷だらけの彼女に微かにでも安心を与える言葉だ。勇気づける言葉だ。
そして、それは自らに課した覚悟の証でもあった。
「行こう。みんなを助けに」
俺達はすぐに孤児院を飛び出した。
Ⅱ
屋根から屋根へと飛び移る、吸血鬼の移動法。
それを以て駆け抜けた俺達は、十数分ほどで廃工場の全体像を視界に収める。西に傾いた太陽を背景にした建築物の群れは、錆び付きながらも朱に染まりつつあった。
あそこに俺達の仲間と、俺達の敵がいる。
「……この匂い」
まだ離れた位置にいるのに、血の匂いがここまで漂って来ている。
それも普遍的な血の匂いと、嫌悪感を抱く血の匂いが混ざっていた。いつもの甘く美しいと言った印象をまったく受けない匂いだ。吸血鬼のものでも、人間のものでもない。この匂いはいったい。
「帳、この匂いを覚えておけ。こいつが聖職者の血の匂いだ」
「……それでか。この嫌悪感は」
聖職者が流した血は、吸血鬼にとって好ましくない。
弱点ではないにしろ、吸血鬼が十字架や聖なる物を嫌うのと同じ理屈だ。だから、こんなにも嫌悪感を抱く。決して、長い間、嗅いでいたいとは思わない匂いだ。
「二人とも仮面を付けて。このまま突っ込むよ」
「あぁ」
走る速度を落とすことなく、手を翳して血装を纏う。
血の仮面を被り、正体を隠蔽し、目前のその時を待つ。
そして、最後の屋根を蹴って跳躍し、俺達は廃工場へと侵入した。
Ⅲ
西日に照らされた廃工場は、静けさに満ちていた。
悲鳴も、怒号も、戦闘音も、なにもしない。ただ自分達が屋根を踏みつける足音しか聞こえない。異様な静けさだ。とても吸血鬼と聖職者の殺し合いがあったとは思えない。
「……妙だな」
そう呟いたのは蒼夜だったが、その意見は三人ともに共通していた。
異様な静けさもそうだが、なにより誰もなにも発見できないことが奇妙。
敵の襲撃を受けたというのなら、その辺に怪我人が――もしくは死体が転がっているはず。なのに、屋根の上から見下ろした限り、それらはすこしも見当たらない。
血痕はあれど、血溜まりはあれど、それ以外には何もない。
「それに、この匂いの濃さ……」
血の匂い。そのとても濃いモノが、この先から漂って来ている。
「この先に集められているってことか?」
「たぶんね。それに……聖職者の血の匂いが思ったよりもしない」
それだけ聖職者に被害が出ていない。それだけ吸血鬼側は劣勢だった。
負傷したのは、血を流したのは、吸血鬼のほうが多い。
「罠かも知れない。ここからは慎重に――」
その先の言葉を、だが誰も聞くことは出来なかった。
言うほうも、聞くほうも、それ所ではなくなったからだ。
「――殲滅しろッ」
次々と姿を現す、黒の一群。
宗教服を身に纏う彼等は、鈍色の得物を手に四方から襲いかかってくる。
こいつらが聖職者、正教会。俺達を、吸血鬼を狩る側の人間。
「チッ、この匂いそのモノが罠か」
黒の衣服は血の色を隠すため、この濃い匂いは付着した血を紛れされるため。
これが聖職者が用いる吸血鬼への対処法か。血の匂いに敏感なのを逆手に取られ、接近を許してしまった。気が付くのが遅れてしまった。
「あせらないで! まだ立て直せ――」
だが、その暇は与えてくれない。
最短距離を突き進み、襲いかかって来た聖職者たち。相対した彼等に対応しようと、迎え撃とうとした、その刹那のことだった。
「――帳くん!?」
足下が、音を立てて崩壊した。