中編
「季和ちゃん、愛はお金では買えないかもしれないけどね、恋人はお金で買えるのよ」
だれにも秘密にして欲しい。そう言ってわたしはお母さんに今日あったことを告げた。そうして返って来たのが先の言葉である。
もちろんわたしは戸惑った。お母さんの言うことの意味はわかるが、意図がわからない。
そんなわたしの困惑はハナからわかっているのか、お母さんは美しい顔にゆるりと笑みを浮かべて言う。
「季和ちゃんはもう周吾くんとは友達じゃいられないと思っているのよね?」
「う……ん。だって、周吾は友達じゃ……ないって、思ってるんだし。相手がそう思ってないなら、友達とは、言えないと思うし」
「でも季和ちゃんは周吾くんといっしょにいたいのよね?」
わたしは黙ったままうなずく。
「それなら友人以外の関係になればいいのよ」
つまり、恋人になれと。
「無理だよ!」
思わずそんな声を上げたけれど、仕方のないことだと思う。
「どうして?」
「どうしてって……む、無理なものは無理だよ」
「どうせもう友達ですって顔じゃいられないんでしょう? 季和ちゃんの性格からして」
「……うん」
「じゃあもう無理でもなんでも、当たって砕けたらいいじゃないの。ほらお母さんが発起人として一〇万あげるから、一度やってみなさいな」
わたしはその言葉ですべてを納得したわけではなかった。お金ですべてが解決出来るほど、世の中が簡単に出来ているわけではないということくらい、頭の悪いわたしでもわかる。一方で、お金である程度のことが解決出来るということも、わかっていた。
「月一〇万でわたしの恋人になって」
実際にはこんなにもすんなりと言葉が出たわけではなかった。白すぎる不健康そうな肌は緊張に赤く染まっていただろうし、一〇万円を入れた封筒を握る手はちょっと戸惑うくらい汗ばんでいた。顔は真面目な表情を浮かべようとして失敗して、きっと奇妙に笑っていただろう。
けれども周吾はそのどれをも気にかけなかっただろうし、なんなら気にもならなかっただろう。わたしの、突飛な提案に比べたら、先のいずれも些細な出来事に違いない。
周吾はじっとわたしの手にある一〇万円の入った封筒に視線を送っている。
冬の屋上休憩所を利用する生徒は少ない――というよりもほとんどいない。だから、今この場にはわたしと周吾しかいなかった。
人がいないのも道理で、さきほどからびゅうびゅうと、刺すように冷たい冬の風がわたしたちに吹きつけているのだから。
ふたりのあいだに落ちた沈黙が実際、どれほどの長さであったかはわからない。でも、休憩の終わりを告げる放送は流れなかったから、長くても二分か三分だろうということはわかる。
永遠とも思える沈黙のあいだにわたしの心臓は最大限の早鐘を打っていた。けれどわたしの心臓が破裂する前に周吾が口を開いたお陰で、わたしは拷問に等しい沈黙から逃れ得ることが出来た。
「わかった」
周吾の言葉に、わたしは間抜けな目を向ける。
「……なんだよ」
「え」
「月一〇万で俺に恋人になって欲しいんだろ?」
「……うん」
「だから、『わかった』って言ったんだけど。感想とかなにかないの?」
周吾の黒っぽい目に映るわたしは、なんだかとても不細工だった。
わたしと周吾は恋人になった。月一〇万円で。
周吾がどういう反応を返すか、わたしはなにも予想していなかった。
けれども現実はふんわりとした想定をやすやすと超えて、わたしが願う夢見がちな結末を見せてくれている。
これは夢なのかもしれない。
「なにしてるんだよ」
「え?! あ、ああ、うん」
「『ああ、うん』て……」
ぷっと吹き出した周吾は、先ほどまでつねっていたわたしの頬をつついた。それが妙にくすぐったくて、わたしもちょっと笑ってしまう。
今日はちょうど期末考査の最終日だったから、帰りの電車内の乗客はまばらだ。お陰でわたしと周吾は隣り合って座席に座ることが出来ている。
恋人になったからと言って今すぐなにかが変わったわけではない。当たり前だ。そもそも周吾は例の「友達じゃない」発言をわたしが聞いたということを知らないわけだし。だから冷たい態度が急に恋人らしく! ……などとはならないわけで。
人生で一度として彼氏などという存在がいたことのないわたしには、恋人らしい行為がいかようなものかはまったくわからないのだが、周吾の態度が急に甘いものに変わったとか、そういうことではないことくらいわかる。
そのことに落胆半分、安堵半分。
なんとなく、これで周吾から急に「友達のフリすんのやめるわ」などと言われる悪夢は回避されたことはわかる。「友人」から「恋人」という関係になったのだから、先述のセリフが出て来ることはないのだ。その安堵をわたしは月一〇万円で買った。
……そう、買ったのだ。
買えてしまったのだ。
周吾はなにを思ってわたしの提案を受け入れたのだろう?
「なあ季和」
「う?! うん、なに?」
「……なんかお前さっきからぼーっとしすぎじゃね?」
「え、え、あ」
「テストの出来悪かった?」
「……まあまあ」
「おいおい。俺といっしょに勉強しただろ?」
月一〇万で恋人という関係になったことについて、周吾はなにも言わなかった。不自然なほど、なにも。だからわたしもなにも言えなかった。やぶをつついて蛇を出すような真似はしたくなかったのだ。
恋人になった。ならそれでいいじゃないかとわたしの中のよくない心がささやく。そしてわたしはそんなささやきに、たやすく屈してしまうのであった。
*
周吾は言った。
「季和が思う恋人らしいことってなに?」
それに対するわたしの答えを、周吾は愚直なまでに遂行してくれた。月一〇万円で。
それはたとえばお昼をいっしょにすることだったり、帰り道をいっしょに歩くことだったり、休日にはいっしょに出かけることだったり。
それは恋人同士の行いにしてはつたないものだったかもしれないが、わたしの貧相な脳みそで絞り出せるのは、それくらいだった。
あと、それから手を繋ぐこと。
けれども表立って手を繋ぐのはなんだかとても恥ずかしいことのように思えてしまったので、暗い映画館でとか、人通りのほとんどない帰り道でとか、それが実行された回数は実にささやかなものだった。
月一〇万で恋人になってとわたしが言って、周吾がそれを受け入れてから、もうすぐひとつきが経とうとしていた。
表向きのわたしたちは恋人そのものだったに違いない。ただし、他人には見えない範囲でのお話だが。
恋人であることをあけっぴろげにするのはやめて欲しいとわたしが言ったので、周吾はそれをきっちりと守っていた。
つい先週、とっても美人な先輩から付き合って欲しいと言われたときも、「好きなやつがいるから」と断っていた。なぜそんなことを知っているかと言えば、簡単な話で盗み聞きをしていたからである。
周吾のことを信頼していなかったわけではなく、ただわたしの卑怯な心がこのような行動に走らせたに過ぎない。
そして周吾はわたしのそんな行為を知っても咎め立てるようなことはしなかった。「月一〇万円で恋人に」。そういう契約をしていたからか、あるいはわたしに盗み聞きされることなどどうでもいいと思っていたからかは、わからない。
「周吾は好きなひとがいるの?」
「ああ、あれ? ただの方便だよ。『付き合うことに興味ない』とか言ったら食い下がるやつ、多いからさ」
周吾のその答えに、わたしはほっとした。
でも、もし、周吾が「そうだ」と答えたら……わたしはどうしただろう。
たぶん、恐らく、その答えに身勝手にも大いに傷ついて、それでいて恋人の関係を解消することはなかっただろう。
そう考えるととても嫌な気分になった。この気持ちは慣れ親しんだものだ。自己嫌悪。自分の矮小さに、嫌で嫌で仕方なく思いながらも、変えられない性根に嫌悪感を募らせる。
でも、周吾の「友人」じゃないわたしは、それ以外の「なにか」になるしかないのだ。「なにか」にならなければ、塵みたいなわたしが周吾のそばにいることなんて出来っこないのだから。