いた! 犯罪者!
いました、犯罪者。
追われてる身でのこのこと自分の家に逃げ帰った、黒野 秋白その人を見た瞬間、僕は死んだ。原因は――死因は定かでないが、その事実は確定的に明らかであると思われた。
当然だが死んだということは、つまり僕は生きていないわけで。生きていないなら、生命活動の全てが停止しているはずで。
だから。僕は死んだのだから、その生命活動の全てを停止していなければならないのだ。明々白々たる当たり前な、不可逆的概念を再認識した僕は、そうして自分が死んだものと得心し、意識が暗転していくのをぼうっと知覚していた。
「バカーッ!」
……ミカさんの叫び声が聞こえたのと同時に、僕は左の頬を叩かれたものと認識した。パシンッと、鋭い音が薄れゆく僕の意識に伝達され、また痛覚も働き、死んだはずの僕に自身の肉体を痛烈に認識させる。
すると、僕は青い空と、白い雲を見た。世界が見えた。死んだはずの僕は今、世界に存在している。起き上がると、ミカさんが右の平手を振るったような態勢で、涙目で僕を見ていた。
何が起こっているのか、僕には甚だ検討もつかない。
「バカな!? どうして!? どうして俺の【パーフェクト・パペット】が効かないんだ!?」
混乱していると、黒野の動揺した声が聞こえた。視線を移すと、玄関の戸を開け、逃亡して以来、初めて僕とミカさんとが目撃したままの姿で――僕が死ぬ直前の姿で――狼狽していた。
半ば人混みの渦中で母親を見失った幼児の如く慌てふためいていると、ミカさんが『しっかりしてよ、バカ!』と毒づきながら僕に肩を貸してくれた。
「黒野 秋白のスキルは【パーフェクト・パペット】――視界に入った人物を自在にコントロールできる最低なスキル。アイツは私たちに『自分は死んだ』という認識を与えた。その効力で脳が自然の摂理に従い、肉体の機能を停止しなければならないという誤った情報を全身に伝達させた。誤った認識の思い込みというのは、つまり脳の勘違い。そして人間の生命活動の全てを指揮しているのが脳。だから脳が『自己存在の破滅』を誤認すると、肉体も本当に死んでしまうの」
辛そうな表情で、未だ状況の整理がつかない僕を立ち上がらせながら、ミカさんが説明してくれる。すると、黒野が酷く気が動転した様子で、おぼつかない足取りながらも階段を降りてくる。
「そうだぁ……俺のスキルは完全支配……あらゆるものの支配権を無条件かつ問答無用で手にする、圧倒的強者の無敵のスキルなんだ――女! なぜお前には効かないんだ!? どんな人間でも俺に従うはずなのに! ひれ伏すはずなのに!」
取り乱した様子で唾を飛ばしながら喚く黒野。もはや正気は保っていないものと見える。そこまで自分のスキルを過信していたのだろう。
「組織をナメるなよ。私たちは【パーフェクト・パペット】の弱点を既に知っているんだ。お前のスキルの存在を知っていれば、認識を誤らせる効力は持たないとな。私はお前がスキルを持っていることを『知っていた』し、そのスキルがどんな能力を有しているのかも『知っていた』んだ。能力を無効化する条件を満たしていた私は、このバカとは違い、影響を受けなかったというだけの話だ――お前、自分のスキルの短所も知らないとは、愚かだな」
挑発と哀れみとを含んだような表情のミカさん。その愛らしくも鋭い眼光に射抜かれ、黒野はいよいよもって激昂したらしく、業を煮やした阿修羅の如き形相で僕を睨んだ。
「殺せ! 女を殺してお前も死ね! 首を絞めろ! 指を折れ!」
僕はようやっと現状を理解しかけていた折にそんな呪詛を吐かれ、ぎょっとした。すると僕の視線と黒野の視線とが同じ仮想直線上で合致し、僕は戦慄した。
もしミカさんや黒野の言葉が本当なら、彼の命じた通り、僕はミカさんを殺してしまう――。そんな懸念で甚だ穏やかでない心境の僕を見て、しかしミカさんは微笑むのだった。
「ほんとバカな奴だな――田中も私の話を聞き、お前の能力の全容を知った。もはや私たち二人にお前のスキルは通用しない。諦めろ。勝機はない。大人しく降服するんだ。今すぐなら死刑で済むよう、私が上層部に掛け合ってみるからさ」
死刑が最も重い刑罰であるはずなのだが、そんなことを得意顔で言うミカさん。彼女と対峙する黒野の方は、それはそれは怒り心頭といった表情である。彼の歯軋りがここまで聞こえてくるほどだ。
「あっくん、どうしたの!? そんな大声出して! 何かあったの?」
その時。家のドアが開かれ、中から50代前半の女性が現れた。黒野の母親であることは明白である。黒野夫人は息子を案じて、裸足で外へ飛び出したのだ。そんな母の姿を、黒野は振り返って目視した。
「マズいぞ、田中!」
ミカさんが叫ぶと、黒野はゆっくり僕たちの方を振り向いた。邪悪な笑みを浮かべ、狼狽えるミカさんを狂気めいた瞳で一瞥する。
すると突然、黒野夫人が金切り声で何か喚きながら、息子の横を通り抜けて僕たちの方へ走ってきた。ミカさんは僕を突き飛ばし、黒野夫人と取っ組み合いになってしまった。ミカさんは僕を庇ってくれたのだ。
「……あっくん! ……息子! ……私の! 何するの!」
黒野夫人は鬼の形相でミカさんの首を締め上げ、ミカさんはそれを振りほどこうと、懸命に黒野夫人の両手首を掴んでいる。僕は二人の傍らに倒れ、それから高笑いする黒野に視線を移した。
「いいぞ! やれ! ママ! そいつは俺の敵だ! ママの息子を狙ってるんだ! ママがママなら息子を守れ! そいつらを殺せ!」
「……殺すぅ! 敵ぃ! あっくんの敵ぃ! 許さない! 殺す! あっくんのためぇ!」
正気とは思えない親子の呪詛が近隣に木霊する。狂気的な黒野とその母親を目の当たりした僕は、ただただ恐怖におののいているだけだった。
「……たっ、なかぁ……ぇ……」
黒野夫人に首を締められ、窒息寸前なのか青白い顔色のミカさんが、苦しみながら僕の名前を呼ぶのが聞こえた。
「……つか、ぇ……スキル……お前の……スキルを……つ……あぇ……」
眼をパチクリさせ、うわ言のように僕に言うミカさん。もはや一刻の猶予もない。僕はミカさんに言われるがまま、時を止めた。
世界が静止した。生きているのは僕だけだ。ミカさんも、黒野も、黒野の母親も、この瞬間に限っては、全ての生命活動が停止し、死んだも同然の状態となっている。
――そう。生命活動の停止が人間の死の定義ならば、僕に時を止められ、あらゆる動作を強制的に停止されている全人類は、死んでいるに等しいのだ。
裏を返せば、人の生と死を、僕は僕の勝手気ままに操っているということ。時を止める。息の根を、止める。そんな僕の所業は、罪深くも神々しい。まさしく神の力といったところのスキルの壮絶な能力を、僕は改めて実感したのだった。
僕は静止した世界を歩き、まずはミカさんの喉元を締め上げ『ていた』黒野夫人の手を放し、彼女の全身を麻縄で拘束した――縄は近所のお宅の柵に巻きつけられていたものを拝借した――。
次いで黒野の身体も、同様に縛り上げる。いくら他者を操るスキルの持ち主たる黒野といえど、自らの時を操られてしまっては、文字通り手も足も出まい。だって、手や足を出そうと思った頃には、思えても実行したその直後には、大抵の場合、僕は既に『先手を打っている』のだから。
そして、僕はミカさんに歩み寄った。彼女の生死を確認しようと、呼吸の有無を耳で聞こうとしたが、よくよく考えると今は時間が止まっているので、確かめようがないことに気がついた。
そう、今は僕以外の全てが『死んでいる』世界。生死を確認しようとしたところで、無駄だ。僕が時を止めている間は、誰も彼もが死んでいる。そんなことを思っていると、何だか少し悲しくなった。
僕はミカさんの生存を切に祈り、時を動かした。
あろうことか、気がついたらおおよそのストーリーラインが頭の片隅に創造されていて、作者はそれを手帳にメモするのでした。どうなっちゃうんでしょう、これから。行き当たりばったりに物語を書く愉悦を覚えてしまった僕は、これからどうなっちゃうんでしょう。
この物語は、どこへ旅立って行くのでしょう。
今作の他に、作者が以前より構想し、更にそこへ様々なブレンドをミックスさせた、さながら皆さんの健康の味方、野菜ジュースの如き『ALTERNATIVE ~オルタナティヴ~』という作品がございます。こちらは予めどうなっちゃうのか、僕がどうなっちゃうのか、物語がどうなっちゃうのか、念頭に置いた上での執筆となっております。
行き先の分からぬ旅路と、明確な目的地へ着実に進んでいく旅路と。後者を、もしくは双方を楽しみたいという方は、ぜひ『ALTERNATIVE ~オルタナティヴ~』もよろしくお願いします。