キミのいない世界で見るキミの夢
僕の世界は死んでいる。キミを失ったその日から、僕の世界は死んでしまった。
彼女がいない世界など意味がない。
彼女が生きていない世界など、僕にとって死んでいるも同然の世界。
彼女の死を聞いてたくさん泣いた。たくさん喚いた。
けれど、彼女はもう二度と僕に微笑んでくれることはない。静止したように動きが鈍り、モノクロテレビを見ているような色のない風景。味気ない世界。だから、僕の世界は死んでいる。
「……」
本当は分かっている。
僕が無気力になったところで、彼女は喜ばないと。
いっそのこと彼女が迎えにきてくれたら、僕は躊躇わずその手を取るだろう。しかし、彼女の本意がそうでないことなど分かっている。これは僕の我侭であり、なんとも幼稚な感情だ。
「理緒……」
彼女の名前を呼んでも、彼女の応えはない。
どれほど触れようと手を伸ばしても、彼女はいない。
「誠司、なーにしてんの?」
「っ!?」
そう思っていた。
しかし、聞きなれた声を、聞きたかった声が僕を呼んだとき、振り返れば彼女がいた。
「理、緒?」
僕は驚き目を見開いた。それは紛れもなく彼女本人で、僕は夢でも見ているような感覚だった。
「なによ? その幽霊でも見たって顔は」
ムスッと頬を膨らませた姿も、コロッと表情が変わり笑い出す姿も、何も変わらない生前の彼女の姿だった。
「あぁ……そうか。あっちが夢でこっちが現実だったんだ」
「何言ってるの? おかしなの」
悲しいような、嬉しいような感情が渦巻く胸のうちを笑いだした僕を、彼女は不思議そうに見てきた。そんな彼女に手を伸ばし、その頬に触れる。
ふっくらとして暖かい。
まさに人間の感触だ。
「いや、怖い夢を見たんだ」
「ゆめ?」
「そう。そこでキミは交通事故で亡くなってしまって……でも、もういいんだ。あれが夢だって分かったんだ。こんな縁起でもない話したら良くないことが起こって…………理緒?」
まくし立てるように喋っていた僕の言葉は、ふと見た彼女の表情によって遮られた。
なぜ、彼女はそんな悲しい顔をしているのだろうか。
「ど、どうしたんだよ?」
「……私、死んじゃったんでしょう?」
「いや、だからそれは僕の夢の話で……」
必死に取り繕うけれど、彼女は一筋の涙を流した。
違う。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
また笑って欲しかっただけなのに。
また僕を呼んで欲しかっただけなのに。
それなのに、彼女は今泣いている。
泣かせてしまった。
「ごめん。僕の変な夢のせいで悲しい思いをさせて……」
「違うよ、誠司」
「え?」
「だって……」
触れていた彼女の体がゆっくりと透けていった。そのことに、僕は現実を否定するように首を振る。
「ちが……理、緒……」
「違わないよ、誠司」
否定し続けようとする僕に、理緒はまっすぐに見つめてそう言いきった。
生前も、彼女は目の前にある現実を真摯に受け止め、目を逸らすことをしなかった。
「私は死んだ。それが正しい世界だよ」
「違う……だって、理緒。キミは目の前にいるじゃないか」
すがりつくように伸ばした手は、彼女に触れることなく通り過ぎてしまった。目を逸らしたい現実に、僕はギュッと目をつぶろうをした。
「駄目。見て、誠司」
彼女の凛とした声音に引っ張られ、閉じかけた目を開けた。そして、ゆっくりと彼女に目を向ける。目が合った瞬間、彼女は安心したように微笑んだ。
「理緒」
「やっと見てくれた」
「え?」
「だって、私の死を受け入れられずにずっと目を背けていたんだもの」
「当然だろ。キミのいない世界なんて……」
「意味がない?」
「……」
問いかけてきた彼女の言葉を、僕は否定することができない。
だって、そうだろう。
大切な存在ほど失ったショックは大きい。自分が生きていることさえ意味のないものだと思えてくるほど、僕には彼女が必要だった。
「そこまで言ってくれるだけで十分だよ。でも、私のことで誠司が潰れていくのなんて見るに耐えないよ」
「だけど僕には……」
「大丈夫。誠司ならきっと、大丈夫だって信じてる」
「待って、理緒!」
目の前で消えていく彼女に、僕は必死に手を伸ばして掴もうとする。しかし、まるで幻を掴むかのように彼女をすり抜けてく。
「理緒! 嫌だ……理緒!!」
我ながら女々しいと思うけれど、それ以上に側に居て欲しかった。
消えてほしくない。
目の前から二度も消えて欲しくない。
「理緒ッ!!」
しかし、僕の願いは叶うことなく、目の前で彼女の姿が消えてしまった。
「理緒――――ッ!!!」
今までこれほどまでに叫んだことがないくらい、泣いたことがないくらい、僕は叫び泣いた。
うっすらと開けた目に写ったのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。何かが流れていく感触を感じ、触ってみるとそれは涙だった。彼女を亡くした日に、流し尽くしたと思っていた涙。
「理緒……」
名を呼んでも、彼女の返事はない。
さきほどまで見ていたことが夢であり、この世界が現実だと感じた。
しかし、受け止めきれない感情ばかりが浮かんでくる。
『大丈夫。誠司ならきっと、大丈夫だって信じてる』
目を閉じようとすると、彼女の声が聞こえてきた。さきほどまで見ていた夢と同じ声音で、まるで本当に喋っていたかのような錯覚。
「……理緒……」
何度も、何度も彼女の名を呼んだ。しかし、答えてくれる声はなく、大きな喪失感だけが胸を締め付ける。
「ぜんぜん……大丈夫じゃないよ、理緒……」
求める者はもういない。その事実から、その現実から目を逸らしたくなる。しかし、目を逸らそうとするたびに、夢で出てきた理緒の顔を思い出すのだった。
僕は彼女みたいに強くなどない。
彼女みたいに受け止めきれない。
『信じてる』
まるで、今でも側に居るかのように。
彼女の声が耳に届く。
振り返っても、どこを捜しても彼女はもう居ないというのに。
「信じられても、僕は……」
自信などない。
もとから自信家とはほど遠いほど臆病で、何事にも自信などなかった僕が、いまさら自信など持てるはずもない。
しかし、目を瞑るたびに彼女の顔が、凛とした声が僕に届いてくる。
「最期の……キミからの贈り物、なのかな」
それはあまりにも辛い。けれど、なぜか胸を締め付ける痛みが緩んでくる。
きっと彼女なら今の僕を見たらこう言うだろう。
『生きて夢を叶えてね、誠司』
はっきりとした彼女の言葉が聞こえた気がした。そして、誰かがポンッと肩を叩くような感触。しかし、振り返ったところで、誰もいない自分の部屋だ。
「理緒?」
探るように目を向けるが、彼女がいるはずもなく僕は肩を落とす。顔を下げたことで目についたのは首からずっとかかっているペンダントだった。生前、彼女とお揃いで買ったペアリングのペンダント。
“大切な人とリングを一つずつ交換すれば夢叶う”
そんな売り言葉が添えてあった。
ペアリングならリングとして売ればいいものを、とそのときは思っていたが、それを気に入った彼女の希望に沿い買った物。
今思えば彼女も僕も、叶えたい夢に向かって真っ直ぐに進んでいた。だから、こんな迷信めいた物にすら神頼みするように買ってしまったのだ。
「でも、もうキミはいない」
これ以上付けていても仕方がない。
そう思い、外そうとペンダントに手をかけた。しかし、外そうとすると蘇ってくる彼女との思い出の日々。本当に今思えばかけがえのない愛しい日常だった。
「帰って、きてはくれないんだよね……理緒」
戻ってきてほしい。
できることなら時間を巻き戻して、キミを取り戻したい。
けれど、分かっている。時間は戻らない。消えた命は、もう二度と戻ることはない。
「それでも……」
それでも、どうしてもキミを諦めきれない自分がいる。祖父母の死にも、近しい存在の死でも、特に悲しむことのなかった僕が、彼女を失ったことだけは、受け入れられなかった。
あれほど涙を流した日はなかっただろう。
あれほど哀しみに暮れた日はなかっただろう。
あれほど狂い、キミへの想いの強さを知った日はなかっただろう。
それほどまでにキミを愛し、愛されていた事実。僕は今も、その事実から目を背け続けるのだろうか。
「……」
俯いていた顔がゆっくりと上がっていく。窓から差し込む光が眩しいと感じるのはいつぶりだろうか。
キミが信じてると言ってくれたから。
キミが生きてと言ってくれたから。
僕はまた歩き出そう。キミと交わした約束を、ともに追い求めた夢を、また叶えてみたいと思うから。
『ありがとう』
「っ!」
耳元で囁かれた言葉に、僕はサッと振り返る。しかし、そこには誰もいない。
確かに彼女の声だった。忘れるはずも、聞き間違えるはずもない。まぎれもない彼女の声音。
「あぁ、そうか」
流れ出しそうになった涙を拭い、僕はさきほど声が聞こえてきた方向に体を向ける。悲しくて、痛くて、辛いと悲鳴をあげる思いを押し止め、それでも僕は久しぶりに笑顔を向けた。
「キミはいつでも、僕の傍にいてくれたんだね」
キミに向ける顔は、もう泣き顔ではない。キミに向けるのは生前のときと同じ、とびっきりの笑顔。
「ありがとう、理緒」
キミの死を受け入れることは難しいけれど、せめてそっちに行くときに怒られないように。亡くなってしまったキミのためにも、僕は歩き続けよう。だってキミは……
「いつだって、僕の傍に居てくれるのだから」
そう言えるようになったから。
亡くなってしまったキミにまだ甘えてしまうけれど、それでもまだ一緒に居て、共に生きていこう。
THE END_