#02
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・国家・固有名称等は架空の存在であり、それに類似する実在ものとは一切関係がありません。
―――4月
『……日本のADIFの輸出は、昨年同様自動車の輸出を大きく上回り……』
「お姉ちゃーん、準備できた~~?」
春の麗らかな朝の空気の中、居間のTVから流れてくるニュースキャスターの声を掻き消さんとするかのように、姉を呼ぶ龍宮沙希の声が屋敷の中に木霊する。それは、玄関から庭を挟んだ先の門の、更に外の通りからであるにも関わらず、だ。
これだけの大きな呼び声であれば、地下室でも無い限り屋敷の中の何処に居ても彼女の姉へと届いたであろう。ましてや、彼女の姉は玄関の上がり框で、スリッパから革靴に履き替えている最中であったのだから、確実に届いたであろう事は間違い無い。
『それではスポーツニュースです!大空を高速で翔け抜けるモータスポーツ”エアコン”にて……』
先程までの経済関連ニュースとはキャスターが替わったのであろう。淡々と語る女性キャスターの声から、いつの間にやら明るく快活な男性の声に、声の質が変わっている。
妹に呼ばれた姉であるところの龍宮瑞希としては、居間から流れてくるNEWSにもう少し耳を傾けていたいところでは有ったが、妹の待ちきれないという感情が滲み出ている声を無視する事は出来なかった。
「(まぁ、NEWSは後でチェックすれば良いかな。―――それにしても……)」
沙希が玄関から表に出たのは、瑞希と比べても2~3分程前でしかない。にも拘らずこの言動だ。そんな妹の愛らしい行動に、靴箆を踵に当てていた瑞希の口元に苦笑いが浮かぶ。すると、今度は弟の龍宮亜希の声までもが瑞希の耳に届いた。
「沙希、落ち着け」
「良いじゃない、兄さん」
それは燥ぐ沙希と、その余りの舞い上がりっぷりを嗜める亜希の声。
瑞希にとって通学に於ける兄妹の遣り取りは、もう数える事も無くなる程の遠い昔に失ったもの。―――そう、もう二度と手に入れる事は出来無いと諦めていたものだった。
しかし今はそれが目の前にある。そんな運命の悪戯に、瑞希の口元は先程迄の苦笑いから微笑みに自ずと変化した。
「はいはい。もう出来たよ~。直ぐに……」
妹に返事を返す瑞希。
だがしかし、瑞希が返事を全て言い終わらないうちに、玄関の引き違い戸が乾いた音と共に開いた。
そして、開いた戸口の陰から、少女の頭だけが横に飛び出してきた。
「お姉ちゃん、まだ?」
その少女は、先程まで瑞希をひたすら呼んでいた、彼女の妹だ。
頭だけを横に突き出した体勢である為に、ポニーテールに纏めた髪が重力に引かれ耳の辺りから垂れている。
如何やら瑞希の返事は、妹の我慢の限界に対して僅かに間に合わなかったらしい。
しかし、流石に今年中には16歳になる妹に対して、『もう少し落ち着くように注意するべきかな』と思った瑞希は、亜希と同様に少々嗜めようと妹へ向けて口を開く。
「もう、沙希ったら落ち着き……」
だが、玄関口から覗かせた沙希のその表情を見て、瑞希の言葉は途中で凍りついた。
沙希の目は、言葉とは裏腹に決して舞い上がってなどいなかった。
沙希の目に浮かんでいたその表情―――それは、安堵。
そう。沙希が天にも届かんとばかりに声を張りあげていたのは、瑞希を待ち切れずにでは無かった。
それは、瑞希の事が心配であるが故―――その事に瑞希は気付いたのである。
若しかしたら、自分が目を離した隙に再び消えてしまうのでは無いだろうか、その様な心配だったのかもしれない。
「(そっかこの世界の私も、不意に消えたんだったね)」
その事に気付いた瑞希は、そんな心配性な妹を心より安心させるべく、妹への返す言葉を変えた。
「沙希、ありがとう。―――大丈夫、私はここに居るよ♪」
そんな瑞希の返答に、今度は先程とは逆に姉の心遣いに気付いた沙希は、その顔に笑みを取り戻した。
「(沙希、心配させちゃってごめんね)」
瑞希は心の中で沙希に謝る。口に出さないのは、沙希がそのような謝罪を求めていない事を瑞希も理解していたからだ。
「……姉さんの気配は、俺が把握している。そう言っただろう」
「兄さんに判ったって、私は心配なんだから仕様がないでしょ!兄さんの意地悪!!」
玄関戸のすぐ外で沙希は、再び自分を嗜める兄に対し、舌を出すという子供っぽい仕草で言い返した。
そんな遣り取りを真近で聞いて初めて、瑞希は亜希も沙希同様に自分の事を心配してくれていたのだと気付いた。
「(こんなに弟、妹に心配をかけるなんて姉失格だなぁ)」
瑞希はこんな事を思いながら、亜希にもお礼を言う事にした。
「亜希も心配してくれていたんだね、ありがとう♪」
「……家族を心配するのは当たり前だ。だから気にしなくて良い」
ぶっきらぼうな返答をする亜希。しかし瑞希には、それがクールを装った照れだと言う事を判っていた。
「(本当、亜希は照れ屋さんだよね~。うぅ、それが容姿とのギャップとも相俟って、お姉ちゃん亜希が可愛くて仕様がないんだよ…)」
その様な亜希の態度を見て、亜希を弄りたくなる悪い病気が発病する悪い笑みを浮かべる姉。これはもう、条件反射と言っても過言では無かった。
「流石、龍宮家が誇るクールビューティーな次女だね~♪」
「……先に行っている。姉さんも早くな」
呆れるような声と靴音共に、玄関戸の脇から立ち去ってゆく亜希。
「(あっちゃー、失敗したみたい)」
亜希のツッコミを期待していた瑞希であったが、目論見が外れたようだった。
やはり、家族を不意に喪った後の2年と言う歳月は、少年を成長させるのに充分な時間であったようだ。
「(まぁ、若しかしたらこちらの亜希は2年前からこうだったのかもしれないけれど……『記憶に無い事は知りようが無い、だから考えたって仕方ない』って、あいつが言っていたしね)」
「お姉ちゃん!」
そんな取り留めない事を考えていた姉に、業を煮やしたのだろう沙希が玄関内に踏み込んで来た。
そして沙希は、靴を履き終えたばかりの姉の片手を両手で握り締め、腰を落とし体重をかけぐいぐい引いて玄関の外に連れ出して行く。
「ん、もう!」
「沙希ぃ、痛い痛い。そんなに引っ張らなくても直ぐに行くってば~~」
「何言っているの!?みんな待っているんだよ!早くしないと悪いよ」
「???」
姉を玄関口の外へ引っ張って行きながら口にする妹の言葉に、瑞希は首を傾げる。
「ちょ、ちょっと沙希、みんなって…」
「ほらほら、急いでっ」
急かす沙希に瑞希は問いただすが、沙希は姉の問いに答えようとせず、結局そのまま瑞希は沙希の成すがままに、玄関から庭へと引っ張り出されてしまった。
龍宮家の庭のうち、玄関口から門へ通ずる部分は石畳になっており、その距離は凡そ十メートル。
「おっ。漸くお出ましだな」
「あら、可愛らしい♪」
そこには、赤門を背に石畳をコの字に囲む形で九人の男女が立ち並び、瑞希達三人を笑顔で迎えてくれていた。
門の手前、石畳の正面には並んでいるのは、三姉弟妹の父母と、叔母の三人。
左から順に龍宮家現当主、龍宮樹。
その隣は妻、和総。
最後が、先々代当主の末の娘であり樹の妹、祈。
樹ち和総の夫婦は、着慣れた様子の和服に身を包んでいるに対し、祈は黒のスーツ、それも男物のスーツで身を固めて居るのが対照的だ。
そして両側に龍宮流空手の住込みの門人である六人が、左右に三人ずつ並んでいる。こちらは、全員が龍宮流の正装である胴着姿だ。
「えー、それでは大変僭越ながら私が」
その一言共に、並んだ門人の中から、一人が一歩前に進み出る。
門人の中で紅一点である、香坂七海だ。
「高校御入学、おめでとうございます、皆様」
彼女は瑞希達3人に向って、祝福の言葉を贈った。
また、祝福の言葉に合わせて三姉弟妹の父母達残り八人も拍手を贈る。
「まさか、この三人の高校生姿が一度に目に出来ようとはな。おめでとう」
「本当に」
「わ~♪ありがとう♪」
「……ありがとうございます」
「―――ありがとう、ございます」
大人達の祝福の言葉に、お礼を返す三人。返事の順番は沙希、亜希、瑞希と図らずも若い順からになってしまった。
それは純粋に感情を表に出せる沙希と、一歩引いてから行動する亜希による性格上の違いによるもの。
そして瑞希は、現在の状況について感激の余り言葉に詰まってしまい返事が遅れた、というのが理由だ。それは瑞希からすれば、先程の玄関での兄妹の遣り取りと同様に、自らが決して得る事が適わないと諦めていた瞬間だからである。
「(判ってる、皆が祝福しているのは、この世界の私)」
「(決して、私じゃない)」
「(でもゴメンね、この世界の私)」
「(私が必ずこの世界を、貴女の大切な人達を守り通すから)」
「(だから、この祝福を受け止めさせて)」
心の中で、そう呟く瑞希。
その所為か、瑞希は自分の目元から一筋の涙がいつの間にか零れていた事に、妹に指摘されるまで気付かなかった。
「あっ!お姉ちゃん、涙、涙!」
「え?ああもぅ、やだな私ったら」
瑞希はスカートのポケットからハンカチを取り出そうとするが、瑞希が取り出すより早く、美咲が自らのハンカチで拭ってくれる方が早かった。
「ほらほら、綺麗な顔が台無しですよ」
「うう」
龍宮家の長女と長女的存在の遣り取りが、家族や内弟子達には微笑ましく映る。
だがしかし、見られている当人は、余りの恥ずかしさに顔が真っ赤になっていた。
「お姉ちゃん、目の次は顔が真っ赤だよ」
「うるさい!」
「きゃ~~♪」
姉をからかう妹に、左手で拳を振り上げる瑞希。それを見た途端、沙希は頭を抱えて兄の背中側に逃げ込んだ。
「こら、逃げるな沙希!……亜希ぃ、沙希を大人しく引き渡しなさぁい?」
「ああ」
「兄さん、即答!?可愛い妹の事を、あっさり見捨てるの!?」
「今のは、明らかに沙希が悪いからな」
「そんな…はっ!」
横に一歩位置をずらし、自分を姉の前へ出す兄に、自らの行為を棚に上げて文句を言う沙希。更には、兄へ言い募ろうとした沙希だったが、姉が微笑みながら沙希の肩を掴んだ事で、残りの言い分が言葉になる事は無かった。
「ふふふ、お姉ちゃんを揶揄うなんて、沙希は悪い子よね♪」
「……お、お姉ちゃん?……笑顔が怖いんだけど……」
「あ~ら、そ~んな事は無いわよ~?」
「ほへぇひゃん、ひはいひはい!」
沙希の頬を摘み左右に引っ張る瑞希と、姉の両手を掴み必死に抵抗する沙希。
「(……楽しそうで何よりだ)」
そんな姉妹の睦まじい姿を見ながら、亜希は三姉弟妹が揃った日の事を思い出していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
―――それは、半年程前まで時を遡る秋から始まる物語